人生に疲れた心を癒す、かびそうまのアローマブログ

ぼくでも、人生に疲れた人を少しだけでも支えられたらいいと思って書いていきます...。

お金に不安があるなら、持ち物や欲を減らして「本当に好きなもの」に使おう

 

収納スペースに潜む危険

 あなたのお住まいには収納スペースはありますか?もしあるのなら、その収納スペースに物はどれくらい収めてあるでしょうか?もし収納スペースからあふれるほど物を持っている場合、あなたは働いても働いてもお金に不安が残る人生を歩む恐れがあります。ぼくがそのようなことを言うのは、一体なぜでしょうか?

ものを買い続けるサイクルにハマるから、お金に不安が生まれる

 それは、ものを買うことで無意識のうちに心の中にものを買い続けるようなサイクルが生まれ、これがどんどん回り続けていくからです。趣向品を買うと自分の心の中で欲望が育ち、それによってまた趣向品が欲しくなって買う。そうするとまた欲望が育ち―――。このように、物を買って溜め込むことでまた物を買いたくなる衝動を抑えられなくなり、その結果物があふれお金が減っていくのです。不安がある人生が幸せだとは考えられないですよね。物を買うサイクルにハマるとお金がどんどん減っていくので、お金でお金を増やすための投資ができなくなるから減る分の埋め合わせのお金を自分で稼がなくてはならず、さらにまた物を買いたくなる欲望から稼いだお金は増えることなく減っていくという負のスパイラルに陥ってしまうのです。

ものを買わないことは正しいが線引きは必須

 ならば、物を買わなければお金が貯まる。それを元に理想的な生活が送れる。そういった考えは正しいですが、ここでまじめな方は「あらゆるものを買わないで節約の限りを尽くしてやる」と勢いづいてしまうかもしれません。難しい話ではあるのですが、物をまったく買わないで生きることももちろんできない上、趣向品を”我慢してでも全く”買わないことはむしろ心にとって毒なのです。たくさん買うことはよくないことです。しかし、真面目なあなたにも好きなことや趣味があるかと思います。それらはお金をかけないでできることもありますが、多くはお金がかかってしまうかと思います。それでもあなたが心から大切にできるような「宝物」にはお金を気持ち多めくらいならつぎ込んでいい、むしろつぎ込むべきかもしれません。その「宝物」を磨くためにお金を使ったならそれが夢への羅針盤へと変わっていくかもしれないからです。

本当に好きな「宝物」はあなたを夢へと導く

 夢は人生の充実感を感じるためにとても重要なものであるから、心を癒すため計らいなくはあれど夢を追い続けるべき、といったことはこのブログの記事で主題として取り立てていました。しかし、人生でやりたい夢が未だわからない人も多いのが近頃の世の中だと思います。それならば好きなことを頼りに夢を探すべきです。その好きなこともおぼろげでよく分かっていない方もいらっしゃるかと思います。そこで登場するのがこの「宝物」なのです。

宝物のために好きで溜まったものを”捨てる”

 でも、お金をいろいろな好きなことに分散させているから、「宝物」と呼べるほどのものがない。といった不安をお持ちの方もいらっしゃるかと思います。ご安心ください。”溜め込んだものを捨てる”ことをすれば、そこに埋もれている「宝物」をまるで宝探しをしているかのような感覚で見つけることができます。ここで注意していただきたい点があります。ぼくがお勧めしていることは飽くまでも”溜め込んだものを捨てる”ことであり”整理整頓をする”ことではないという点です。整理整頓はものを普段行かないようなところにしまうことです。例えば収納スペースでは手が届いてしまうから、物置代わりのコンテナに置き場を変える、といった具合です。これでは余分に買ったものに未練が残ってしまい「宝物」を磨いていく際の邪魔になります。対して余分だと思ったものを捨てれば、未練も一緒に捨てることができます。これなら心が軽くなってものに引きずられることが無くなり「宝物」を磨く、つまり捨てていった結果残った「本当に好きなもの」にお金をかけることができるのです。

捨てることができないなら誰かに譲るべし

 しかし、物を捨てることはなんだか損をする感じがして嫌、という場合もあるかと思います。それなら買い取ってもらったりその余分なものを必要としている誰かに譲ったりしてみてはいかがでしょうか?ぼくは買い取ってもらうよりかは誰かに譲った方が未練が残りにくいかと思います。なぜなら、買取はお金をもらえる分心を戒めなければ買い取ってもらったものを買い戻してしまうかもしれないからです。買取も譲ることもものに新たな役割を与える点では同じです。そんな仕事を、あなたはそれらを通じて立派に遂げたのです。ただ、ずるずる買い戻してはその務めも果たせません。それなら知り合いに譲り感謝される喜びを目に見て感じる。はたまた施設や団体に寄付してそこにいる人たちの「宝物」として使ってもらう。この方が有意義な捨て方かと思います。

喜捨”に基づいて物やお金と付き合う

 最近「マインドフルネス」が話題となりましたが、その源流を辿ると禅宗という宗教に行き着きます。座禅をすることで道のような大いなる力を感じる(道「タオ」の概念については↓の昨日の記事もご覧ください)

 

kabisouma.hatenablog.jp

 昔から日本に馴染みのある宗教です。この禅宗の教えで”喜捨というものがあります。ものを捨てれば未練から離れられるので喜んで捨てよう、といった意味です。禅宗が流行った昔の日本ですら物の誘惑というものがありました。昔からある誘惑を喜捨によって断つことで、あなたの人生はより豊かになるでしょう。

この世でいちばん優れているモノ、水をお手本に生きると癒され楽になれるよ

 

お酒の銘柄にもある教え「上善如水」

 あなたは日本酒を飲みますか?江戸時代の地名で言う越後、およそ新潟県のあたりでは上善如水というお酒が作られているらしいですが、その銘柄である上善如水とはそもそも諸子百家の大家老子の教典である「論語」に書かれた教えの一つであるのです。では、諸子百家とはどのようなものでしょうか?

諸子百家とは、そして孔子の教えとは

 諸子百家とは古代中国の戦乱の世に自分たちの思想や知恵を広めていった賢者たちのことを指しますが、その中でも儒学で有名な孔子は日本でも有名であり読者の皆さんでご存知の方も多い方と思います。そんな孔子の教えは人に本質的に備わっている正義感”仁”という心を活かして自分を律し他の人にも仁を持って接することで世の中は安泰になる、よって仁を元に正義感を磨いていこうというものでした。これははっきりというとぼくのブログテーマである”疲れた心を癒す”というものから外れています。なぜなら、仁とは完璧なものでなくてはならないので、それ以外の行いをすると罰せられたり非難されたりする点が、理由を持って外れた行いをしている者や完璧を目指すことができないもの、完璧なる仁が自分に合わないで苦しむ者を除け者にする排他的な考えだからです。

孔子の考えが心を疲れさせる理由

 体が疲れているときだけではなく、心が疲れているときもまた本来は休みを取るべきです。心の疲れ具合は過去の社会と現代の社会では大きく異なっています社会のシステムや仕事の内容が過去と比べて大きく変わったからです。その”過去とは違う働き方”において鬱々とした気分ではなじんでいる仕事も手に付かないでしょう。しかし、頭が過去のシステムに捕らわれているからか、心の疲れを理解できずに怠けているとか甘えているとか非情な言葉を浴びせてその人に追い打ちを仕掛ける人もいまの日本社会では多いと思います。その”怠けず、甘えず、とにかく働け”といった考えは前近代的な考え方であり、これこそ孔子が考えた”仁を磨く”という考えに近いです。いかがでしょうか?なんだか懐が狭い感じがしませんでしょうか?

心を癒す考え方をする老子

 この孔子の教えに待ったをかけたのが論語を遺した老子です。老子”この世の中で上へ上へと地位や富を追い求めていっても残るものは虚しさだけだという心が疲れていく仕組みに2000年以上も前に気付いていました。その上や完璧を目指す虚しい考え方が孔子の教えである儒学であるとして、”人の力で社会や世の理を支配するという野心的な指向はいつか破綻する、それよりも何事も自然に身を任せ、おぼろげながらそこにある「道(たお、とも読みます)」に従って生きるのが人として正しい生き方だ。ことさらな行いをせず、ああしようこうしようといったわざとらしいことをしないで、ありのままの素朴な自分で生きることで、その道に従う生き方ができる。それが人として正しい生き方だ。”と説いたのです。

上善は水の如しの意味とは

 そんな疲れた心を癒してくれるような、楽で懐の深い生き方を推奨している老子の教典「論語」にある言葉こそ『上善は水の如し』、つまり上善如水なのです。この言葉は現代日本語に訳すと「最もすぐれているのは、水のようなものだ」という意味になります。なぜ老子は水こそがこの世でいちばん優れていると考えたのでしょうか?それは、水はすべてに恵みを与えてくれるものでありながら、争うようなことをせず、それでいて誰もが嫌がるような低い立場にとどまっている、という水の本質が人の理想の生き方である”大いなる自然の源とされる道に従って生きる”生き方にとても近いと考えたからに他なりません。誰もが望む高い立場を求めて、誰かしらを蹴落としながらも争い続ける。こんな競争にまみれた生き方をしていたら心が疲れてしまいますよね。それでもって争いの中で何かを得たとしても、それで満たされることはほとんどなく、また高い立場を目指して争いに身を投じる。つまり、争いに躍起になっている間は満たされることがないので幸せになれないのです。これでは目の前にニンジンをつるされていて、それを食べようと追いかける馬と変わりありません。そのような苦しい生き方をするくらいなら、低い立場でも構わないと甘んじてまで争いから下りるべきなのです。もしあなたが争いから下りて低い立場にいようがそれでもあなたです。なたの本質的な価値に変わりはないのです。それこそ、低い立場に甘んじることで水のように誰かに感謝されるような恵みをもたらすことができるかもしれません。

恵みを与える”低い生き方”

 誰かに喜ばれたいのなら、まず自分が満たされている必要がある。「夢をかなえるゾウ」(著者 水野敬也)におけるメンター”ガネーシャ”の最後の教えです。低い立場にとどまり、争いから下りることであなたの心の疲れは少しずつではあるけど癒されていき、心に空いていた何かも満たされていきます。心の穴が埋まっていったなら、誰かの苦しみをわかることができるようになっていくため、その苦しみを救いたいと手を差し伸べ、恵みを与えることができるのです。水をお手本にすることで、「争いから下りることができて」癒され楽になれる。このことを心に念じておけば、あなたらしい楽な人生が送れるでしょう。

人生でいちばんやってはいけないことは、周りのために諦めること

 

世の中に多く在る「可能性」を示す言葉

 あなたは、少しくらい頑固と思われるような粘り強さを持つ人ですか?はたまた、物事をすぐに見極めることができ、可能性が低かったときはすぐに身を引く人でしょうか?世の中には、潔いとか諦めが早いなどといった可能性に関する言葉がたくさんありますよね。ぼくは、その可能性を表す数ある言葉の中でも、諦めるという言葉が特に嫌いです。なぜなら、その諦めるという言葉に心を支配されてしまうと、できることもできなくなり、最悪の場合にはより長く生きることもかなわなくなる場合すらあるからです。

自分を諦めては、才能もなかったことにされる

 ときには潔さや諦めることも必要になるでしょう。でもその時は絶望に向かうための諦めではなく、むしろ自分の可能性を絞り、特化させて夢へとつなぐための、希望へと向かうための諦めでなくてはなりません。絶望によって諦めることは、その夢や欲しいものを諦めることではありません。それは自分の可能性を自らの手で閉ざすことであり夢やモノ以前に自分自身を諦めることなのです。自分自身を諦めてしまうと、せっかく持って生まれた才能を使うことができなくなります。その才能が類まれだとしても、使うやる気が起こらなくなりなかったことになるからです。有能な力は使ってこそ実現し、その力を人のために使ったなら感謝されるものです。そうなった時初めてに自分も周りも私って才能があるんだな、と評価できるのです。実現しない架空の才能を評価できるような人はいません。だから、もしあなたが自分を諦めようとしているならば、プラス思考になんてならなくて何ら問題ないので、諦めないように尽くすべきなのです。

諦めなかったからこその「社会の発展」

 これまでの人類の発展は”諦めない”ことによって成し遂げられてきました。太古の時代を生きた人は、ある時乾燥した森に雷が落ちて木々が発火し火を見つけました。その火というよく分かっていないものの発見は、近づくと熱いですが明かりになったり物を焼いたりと生活に欠かせないような大発見になりました。ここで言いたいことは”この時に火は近づくと危ないので追求するのはやめようと諦めていたら、いまの生活はあり得なかった”ということです。人は時に諦めることではなく諦めないことも必要です。それによって自分の、ひいては周りの人々の可能性も新しく開かれる時があるからです。その諦めないことは諦めることよりもエネルギーが必要なので様々な人が嫌がります。でも、あきらめない人には諦めない人にしか見えないような景色があります。それに魅力を感じるか感じないかは個人によって差があると思いますが、もし魅力を感じているにも拘らず、自分にはできっこないと楽ができる”諦める”という対応をするならその先の人生に幸せはないと思われます

あなたが自分の可能性を諦めたのは、あなたに理由がある

 失敗して、それで笑われて叩かれて、といった非常な仕打ちを受けるかもしれませんが、その仕打ちはあなたの信じる道の物理的な邪魔になり得ません。言葉以上のことをすれば法律によって逮捕されるし、そんなリスクを酔狂のために負うのは並の人ではできないからです。だから、誹謗中傷の言葉にはあなたを変えるほどの力はないのです。馬鹿にされたら嫌な気持ちになるだろう、そうお思いになる方もいらっしゃるかと思われます。しかし、それは馬鹿にされることで”その方が、自分自身を変えた”だけなのです。喜んでほしいとプレゼントを渡しても、相手の趣味にハマることなくいまいち喜んでもらえなかった。傷つくような言葉を無意識に発していて、申し訳なくなり謝ったが相手は特に気にしていなかった。人とのコミュニケーションでこのようなすれ違いは日常茶飯事で起こりますよね。このように人は他の人の心の動きを完全に操ることは困難を極めるのです。だから、あなたができないことだと諦めていることは、昔からあなたの周りにいた人たちから刷り込まれている嘘であることが多いです。

あなたの人生の主人公はあなた。諦めなくていいんだよ

 あなたの希望を妨げる人は、自分が持っていない希望を持つあなたが羨ましいので同じ絶望に引きずり込み自分をいい気分にしようと悪巧みをする人や、あなたと親しいがあまりあなたを放っておけず依存し、依存ゆえに信用できないあなたに幸せの在り方を押し付けるあなたありきの人といった人物です。彼らに邪魔されたといって、諦めていいはずがありません。あなたの人生の主人公はあなたです。これはよくある決まり文句であると同時に、いつも何かに影響され続けて生きている現代で忘れがちな教訓でもあります。もし自分が幸せになれそうにない、合わない道だと思ったなら、周りの声を振り切って「別の可能性を追いかけるために」いまの道を諦めて閉ざすことをしてもいい。むしろ過去を引きずらず前を向いて歩くための決算として、するべきことなのかもしれません。しかし、それが周りの声に蔑まれたからといって諦めることは、人生でいちばんやってはいけないことだと思います。他人の誹謗中傷ごときで輝かしい自分の希望を奪われようものなら後悔しながら死ぬことになりかねないからです。自分をありのままでいられるようにいたわりつつ生きる。こうすれば惑わされ主導権を失うことはなくなります。

真面目なあなたは、自分を諦めないためにわがままでも大丈夫

 大丈夫です。あなたは立派な人なので、その立派さを利用するといった、少しあくどいことをしても問題ありません。もちろん犯罪に触れるなど見るに堪えない迷惑をかけては積み上げた信用を失うためしてはいけません。ただ、エネルギーを溜め込んだ活火山のように、自分を押し殺し周りの人たちのために動きすぎても、それは自分のためにはならず、その依存に近い目的意識最悪の場合ですが周りに大きな迷惑をかけることも、小さな迷惑ならすでにかけていることもあります。それでも周りの人たちに恩返しがしたいなら、いまは無視してでも夢や可能性を諦めずに、ただ自分の才能を無理しない程度に活かす。これならば自分も生きていて楽しいと思います。自分の可能性を諦めることを諦めましょう

着飾らない方が、あなたはより魅力的に見えるよ

 

気に入られたいときについしがちなこと

 あなたは、気に入られたい人には自分を着飾って紹介してしまうことがありますか?気に入られたいという欲望に動かされて、つい自分の個性を大きく立派に思えるように紹介するときはありますよね。しかし着飾らない方が、あなたはより魅力的に見えるなどの恩恵を得ることができます。それは一体なぜでしょうか?

着飾ることは嘘をつくこと

 それは着飾って紹介するということは、相手に嘘をつくことだからです。それは、この前書いた下の記事

 

kabisouma.hatenablog.jp

 

にある通り、人の信頼を損なういちばん簡単な行為です。気に入られたいにもかかわらず、誠意ある自分の姿を伝えずに嘘を込めた自分の姿を伝えることは、その人から信頼されずうわべだけの関係になってしまいます。それでは、気に入られたい側も気持ちを受ける相手側もよい気持ちにはなりません。だから、両方が気持ちの良い交流ができるように着飾らない方がいいのです。

あなたに魅力が”ないわけがない”

 着飾らない、ということは自分のありのままの姿をその相手にさらけ出す、ということです。このことについて、自分は魅力がないから、また自分は口下手で会話に詰まってしまうから、といった不安を抱えられている方もいるかと思います。そんな方々には、自分に質問してほしいことがあります。”自分には本当に他の誰かと完全に一致するような人なのか。”という質問です。これに少しでも違うと直感的に思えるようなら、それは大きなチャンスです。なぜなら、その違和感を感じる分野や癖こそ、あなたの魅力足り得る特徴になり、それを元に自信を持って自分をさらけ出すことができるからです。例えばスポーツやJ‐POPといった分野に精通していなくても、ゲームやアニメを極める勢いでハマり、その分野全体に精通することができたら、そのチャンスを活かせたと言っていいでしょう。たとえその分野に華がなくても、それが心から好きなら受け入れて極めるまでハマる。それによって得た知識を披露するだけでも、十分魅力的な話ができると思います。

魅力を押し付けるのはやめよう

 しかし、ここで注意していただきたいのが、その知識を押し付けてはいけないという点です。相手が興味を持てないような話でも、自分が大好きで満足できるからずっと話している。これは相手に嫌な印象を与えてしまいます。コミュニケーションの基本ではありますが、感覚に任せて話しているといかんせん忘れてしまうことです。自分の魅力を際立たせようと躍起になることもわかります。でも、相手を思いやってこそ楽しいコミュニケーションが成り立つというもの。顔色を窺うといった依存気味の姿勢ではなく、相手を支えてあげたいといったどっしり構えた姿勢で、それでいて着飾ることをしないなら、あなたはより魅力的に見えることでしょう。

自分の欠点は、受け入れれば個性に変わるよ

 

競争社会から生まれる”自己否定感”

 あなたには自分に欠点やコンプレックスを抱えていますか?現代の競争社会で生きる人々は、幼いころに人と比べ合うことを刷り込まれているから、無意識のうちに自分と周りの人たちを比べて優劣を決めています。その結果自分に対して欠点やコンプレックスがあるといった、”自己否定感”を養ってしまいます。この前の記事では、「人と比べることに意味はない。なぜなら、物事の基準は相対的に決まるものしかないから。」といった内容

 

kabisouma.hatenablog.jp

 

で書きました。しかし、人間は理屈を頭で理解していても、潜在意識の影響か、はたまた慣性の法則のように一度染みついた思考から離れられないからか、なかなか自分を変えることができません。なので、意味がなくとも人と比べてしまい、その結果生まれた欠点に劣等感を抱いてしまうのです。今日の記事では、そのような欠点を受け入れることで、むしろ個性として自分のストロングポイントになり得る、という内容で書こうと思います。

自分の欠点が個性になれる理由

 なぜ自分が劣っていると感じる、嫌な欠点やコンプレックスが見方によって個性になるのでしょうか?それは、個性とは人と比べて自分が違う部分を指すものだからです。人と違っている点が個性。このことに違和感を感じる方はあまりいらっしゃらないかと思います。ならば、ぼくは個性は人と違う点ならば、人と違えば勝っている点だけを個性ととらえる必要はなく、劣っていたとしても人と違えばそれは立派な個性である、と考えます。もしあなたが「調子に乗りやすく気分で動く気分屋である」ことが欠点であるとします。でもそれは欠点ではないのです。しかし利点であるとも思えないかと思います。それでなぜ悪いのでしょうか?個性とは人と違う自分の特徴でしかなく、良いも悪いもないのです。だから、たとえあなたが気分屋であることにコンプレックスを感じていても、それは1つの個性であり受け入れるべきです。初めは受け入れることが難しいかもしれません。しかし、ネガティブな感情におぼれそうになった時に、人と比べて勝っている必要はないという事実を思い出せば、時間をかけることで受け入れることができるでしょう。

欠点=個性をストロングポイントに変えるには

 では、どうすればその個性をストロングポイントに出来るのでしょうか?それは、その個性を隠さずに、個性に沿って行動することが重要です。例えば、気分屋であることを受け入れたなら、気分が上がっているときに重要な問題に取り組み高いパフォーマンスを発揮する。そしてその気分屋な性格を人に隠さず、むしろさらけ出していく。そのようにすれば、個性に逆らわずにうまく利用して生きていくことができているといえるでしょう。今のグローバル社会では、個性を受け入れさらけ出すことが重要視されています。Appleの各製品も、twitterFacebookもその創始者の個性を遺憾なく発揮したことで成長しました。ぼくはそんなグローバル社会で上を目指してガンガン働くことはむしろ幸せから遠のく行為であるとして控えるべきだと思います。だからこれらの創始者に無理に近づかなくていいと思うのです。しかし、グローバル社会で重要視されている個性の発揮は、上を目指すことに必須な点以前に自分にとって楽で生きやすくなるという利点があります。自分が何をやりたいか、どんなことができ、どんな癖を持っているかなどの個性は、日本だけの狭い社会では他の人にどうしても理解されないかもしれません。しかし、今はグローバル社会であり、日本社会の鎖国の壁は崩壊しつつあります。これならば、世界を相手にとり自分の個性を発揮して受け入れてもらうという、仲間の輪が広がるサイクルを回すことができます。仲間が増えると人生が豊かになることは言うまでもありません。しかもその仲間が自分に合った人たちなら、人生が楽になります。このように欠点を個性として受け入れば、グローバル社会でも楽に生きていけるのです。一朝一夕で受け入れるのは難しいことでしょう。しかし、時間をかければあなたならできます。世界にはゆるりと羽ばたいていきましょう。

経済の基礎は信頼にあるから、嘘はなるべくやめよう

 

コンビニアルバイトで感じた疑問

 ぼくは以前コンビニでアルバイトをしていました。アルバイトをすると給料日で給料がもらえますよね?ごく普通のことですが、この時ぼくは「なぜアルバイトの見返りでお金がもらえるのだろうか?」と疑問を持ちました。それにはお金のために身を滅ぼす人がごまんといる世の中が不思議に思えていた、という背景があったのかもしれません。こんな紙に命を張ったり奪い合ったりする価値はあるのか?その答えを知るため、ぼくはインターネットにて「お金とは」と検索しました。その結果、お金は”信頼の塊のようなもの”であることがわかりました。

お金の本来の意味とは

 この意味を深く理解するには、経済活動の時代を石器を扱って狩猟をしていた原始時代まで遡る必要があります。この原始時代には円やドルといったお金は発明されていません。その中での経済活動はお互いに狩りで得た収集物を交換する、物々交換経済が主流にならざるを得ませんでした。しかし、物々交換にはある欠点があったのです。その欠点とは「相手の欲しいものと自分の欲しいものをお互いに持っていなければ経済が回っていかない」という点です。相手は魚を持っていて自分はそれが欲しい。しかし獣肉では相手の要求に応えることができないため交換に応じてくれなかった。そうなると経済が破綻してしまうのです。そこで原始時代を生き抜いた人々は、お金というシステムを作ることにしました。お互いが確実に価値があると思える貝殻や貴金属をお金として取り決め、お金を物々交換の際に相手に渡すものとして用いるのです。これならばお互いに価値を認め合っていたり、価値の高さが一般的に浸透していたりと相手との交換そのものが成立しないといった事態を防ぐこができました。しかし、この経済もまた成り立たなくなっていきます。なぜなら、貝殻も貴金属も収集したり加工したりできる量に限度があり、限度を超えるような価値の高い取引が成立しなくなってしまうからです。そこで、その後の世代の人々はお金のシステムを書き換えることにしました。それが現代まで用いられている、国が決めた紙や硬貨を価値があるものとしてその”仮の価値”を持つお金で取引をする経済です。(この制度を管理通貨制度と言います。)つまり、お金のやり取りとは物々交換の延長線にあるものだったのです。さらに物々交換をするにはもう一つ欠かせないものがあります。それはお互いの信頼関係です。

信頼し合う関係が経済の基礎

 信頼のおけない人と物々交換に踏み切る勇気がある人は、そういないでしょう。量が少なかったり、偽物を渡されていたりと交換に不備が起きやすく安心できないからです。逆に言えば信頼のおける人物は、仮にこの世界からお金が無くなってしまっても物々交換ができたり誰かからの援助が受けられたりと得をすることになると思います。そもそも国民が国を信用していないなら、このお金というシステムは破綻してしまったことでしょう。お金”自体はただの鉄や紙切れでしかなく、価値がないのですから。よってお金は人と人、国家と国民とで信頼関係にあってこそ使えるものなのです。また、そんなお金は信頼を集めたものといってよいでしょう。ではどんな人が他の人の信頼を得ることができるのでしょうか?それは至極単純です。誠実に、わかりやすい人間になろうとすればいいのです。

嘘は「なるべく」やめよう

 誠実な人は今の世の中少ないと思います。わかりやすい人や事柄も少ないと思います。ニュースを見る限り失言や犯罪にあふれているからです。このような時こと(少し言葉として悪いかもしれませんが)あなたにとっての信頼を得るチャンスです。周りの世界は嘘にまみれているからこそ、自分こそは等身大で誠実に生きることで、いざという時に信じてもらえると思います。そんな生き方にはどうすればいいか。これもとても単純明快です。嘘をつく時を”吟味”すればいいのです。今の複雑化した世の中嘘をつかなければ誰かが悲しむといった場合が本当に起こり得る場合もあるかと思います。そういった場合ぼくは嘘をついてもいいと思います。その場合の嘘は誰かに希望を持ってもらえるような嘘が理想です。悲しむからと言って甘えられるような嘘はその人のためになりません。現実は残酷なことも多いのです。だからこそ、そういった時なら真実を伝えるべきです。苦しみから逃れられる嘘は優しいけれども詐欺であると思います。その優しい詐欺は詐欺をされた人の受け入れるという、幸せになるための儀式のようなことを邪魔してしまう恐れがあるのです。だから、真実を伝えて一緒に受け入れる努力をする。これこそベストとはいかずもベターな選択なのではないでしょうか?いつもは嘘をつかず、相手を甘やかす嘘もつかず、相手を励ます嘘ならつく。そういったことを心掛けるならば、おのずと信頼してくれる人が周りに現れることと思います。

欲を心から満足できることだけに減らすと、楽に生きていけるよ

 

音楽フェスティバルに向かうバスを見て

 今日の昼間に街に出かけていると、若い人たちがぎゅうぎゅうに詰まったバスがぼくと逆方向に走っていきました。彼らは今日僕の住んでいる街で開催されるらしい音楽フェスティバルに参加するために、定員を10人ほど超えているバスに乗っているのだと思われます。ぼくとしては、”五感を満たすような快楽に入り浸りたい”といった欲求を自分の中で増やし続けると、自分が疲れ切って満身創痍になってもなお快楽を追い続けてしまい、結果として我が身やそれ以上の大切なものですら失ってしまう、快楽依存症を患ってしまう、と考えています。

五感を満たす快楽を追う”リスク”

 五感を満たすこと、例えば親しい友人と買い物に出かけて、お金を払い洋服やおいしい食べ物を買うこと(これによって視覚と味覚が満たされる)、今日のこの街で開催された音楽フェスティバルに参加して、大音量の音楽に心を揺さぶること(これによって聴覚が満たされる)などです。これらの快楽はたまに、なおかつ嗜む程度には行ってもいい、むしろコミュニケーションの場で役に立つと思われることなら行ったほうがいいとも思います。でも”たまに、かつ嗜む程度の少量”という条件を守ることができないなら、その快楽にハマり抜け出すことが困難になります。そうなると大切なものが欠けていき、穏やかで幸せな人生とはかけ離れてしまうのです。もちろん、それを踏まえたうえでハマっているという人もいるかと思います。そんな人は自分の生き方に迷いがないようならその生き方を続けていくべきです人生に絶対はなく、その中であなたの幸せを阻害していい人などいないのですから。しかし、その快楽を追う生き方に躊躇いや危険を感じているのなら、少しずつで何ら問題ないので欲求を少なくしていく努力をするべきです。

欲求を少なくするということ

 ここで「欲求を少なくして快楽に浸らないのなら、幸せはむしろ遠ざかっていくのではないか?」と疑問を持たれる方もいらっしゃるかもしません。しかし、ぼくがいう努力とは欲求を少なくすることだけではありません。もう一つあるのです。それは満足することを知ることです。これはあらゆることに妥協をすることではありません。ただただ今いる自分に満足したり、今持っているものに満足するということなのです。あなたは日本に生まれた時点でありすぎるほどにものに囲まれています。それでも視点は快楽欲求によって破壊され、いつのまにかあるものではなくないものばかり見ている。あるいはあるものを見る視点は、周りの人たちに置いて行かれたくないという恐怖によって破壊されたのかもしれません。あなたは今のままで充分なのに、どうしてないものばかり探しているのでしょうか?まるであくどい刑事の粗探しのようです。しかし、時に人はどういった行動をとれば現状から抜け出せなくなるのかわからなくなる時があります。少なくともぼくはそうでしたので、ほかにそういった方がいらっしゃるなら、その頭が真っ白になりフリーズする感覚がわかります。そんな方に、ぼくが僭越ながらヒントをお教えします。このヒントをそのままお使いになっても、自己流に直してお使いになっても、あなたの役に立てれば本望です。

ぼくが見つけた本のヒント”あるある探検隊ゲーム”

 さて、快楽から逃れるヒントとして、ぼくはあるある探検隊ゲームといったゲームをプレイすることをお勧めします。このゲーム自体は”神様とのおしゃべり”(著者 さとうみつろう)という本が初出なのですが、書き込めるものを用意して、そこに自分が生活している部屋で目につくものの単語を書き、その単語の後ろに~があるという3文字をくっつける、というゲームです。(これはむしろゲームより訓練に近いですが...)これによってとにかくあるものが多いことに気付きます。たしかにないものもあります。でもあるものだって多いのです。そのあるものに満足することで、あなたは快楽欲求に縛られない人生を過ごすことができるのです。これは簡単でかつあっという間に終わるゲームなので、空いた時間に覚えていたなら、だまされたと思ってやるくらい気軽に行うのがちょうどいいと思います。

 

 あるものが多いことに気付いて、それに満足すれば欲が少なくなり、楽に生きていける。快楽を増やすことだけが、幸せへの道ではないのです。