人生に疲れた心を癒す、かびそうまのアローマブログ

ぼくでも、人生に疲れた人を少しだけでも支えられたらいいと思って書いていきます...。

経済の基礎は信頼にあるから、嘘はなるべくやめよう

 

コンビニアルバイトで感じた疑問

 ぼくは以前コンビニでアルバイトをしていました。アルバイトをすると給料日で給料がもらえますよね?ごく普通のことですが、この時ぼくは「なぜアルバイトの見返りでお金がもらえるのだろうか?」と疑問を持ちました。それにはお金のために身を滅ぼす人がごまんといる世の中が不思議に思えていた、という背景があったのかもしれません。こんな紙に命を張ったり奪い合ったりする価値はあるのか?その答えを知るため、ぼくはインターネットにて「お金とは」と検索しました。その結果、お金は”信頼の塊のようなもの”であることがわかりました。

お金の本来の意味とは

 この意味を深く理解するには、経済活動の時代を石器を扱って狩猟をしていた原始時代まで遡る必要があります。この原始時代には円やドルといったお金は発明されていません。その中での経済活動はお互いに狩りで得た収集物を交換する、物々交換経済が主流にならざるを得ませんでした。しかし、物々交換にはある欠点があったのです。その欠点とは「相手の欲しいものと自分の欲しいものをお互いに持っていなければ経済が回っていかない」という点です。相手は魚を持っていて自分はそれが欲しい。しかし獣肉では相手の要求に応えることができないため交換に応じてくれなかった。そうなると経済が破綻してしまうのです。そこで原始時代を生き抜いた人々は、お金というシステムを作ることにしました。お互いが確実に価値があると思える貝殻や貴金属をお金として取り決め、お金を物々交換の際に相手に渡すものとして用いるのです。これならばお互いに価値を認め合っていたり、価値の高さが一般的に浸透していたりと相手との交換そのものが成立しないといった事態を防ぐこができました。しかし、この経済もまた成り立たなくなっていきます。なぜなら、貝殻も貴金属も収集したり加工したりできる量に限度があり、限度を超えるような価値の高い取引が成立しなくなってしまうからです。そこで、その後の世代の人々はお金のシステムを書き換えることにしました。それが現代まで用いられている、国が決めた紙や硬貨を価値があるものとしてその”仮の価値”を持つお金で取引をする経済です。(この制度を管理通貨制度と言います。)つまり、お金のやり取りとは物々交換の延長線にあるものだったのです。さらに物々交換をするにはもう一つ欠かせないものがあります。それはお互いの信頼関係です。

信頼し合う関係が経済の基礎

 信頼のおけない人と物々交換に踏み切る勇気がある人は、そういないでしょう。量が少なかったり、偽物を渡されていたりと交換に不備が起きやすく安心できないからです。逆に言えば信頼のおける人物は、仮にこの世界からお金が無くなってしまっても物々交換ができたり誰かからの援助が受けられたりと得をすることになると思います。そもそも国民が国を信用していないなら、このお金というシステムは破綻してしまったことでしょう。お金”自体はただの鉄や紙切れでしかなく、価値がないのですから。よってお金は人と人、国家と国民とで信頼関係にあってこそ使えるものなのです。また、そんなお金は信頼を集めたものといってよいでしょう。ではどんな人が他の人の信頼を得ることができるのでしょうか?それは至極単純です。誠実に、わかりやすい人間になろうとすればいいのです。

嘘は「なるべく」やめよう

 誠実な人は今の世の中少ないと思います。わかりやすい人や事柄も少ないと思います。ニュースを見る限り失言や犯罪にあふれているからです。このような時こと(少し言葉として悪いかもしれませんが)あなたにとっての信頼を得るチャンスです。周りの世界は嘘にまみれているからこそ、自分こそは等身大で誠実に生きることで、いざという時に信じてもらえると思います。そんな生き方にはどうすればいいか。これもとても単純明快です。嘘をつく時を”吟味”すればいいのです。今の複雑化した世の中嘘をつかなければ誰かが悲しむといった場合が本当に起こり得る場合もあるかと思います。そういった場合ぼくは嘘をついてもいいと思います。その場合の嘘は誰かに希望を持ってもらえるような嘘が理想です。悲しむからと言って甘えられるような嘘はその人のためになりません。現実は残酷なことも多いのです。だからこそ、そういった時なら真実を伝えるべきです。苦しみから逃れられる嘘は優しいけれども詐欺であると思います。その優しい詐欺は詐欺をされた人の受け入れるという、幸せになるための儀式のようなことを邪魔してしまう恐れがあるのです。だから、真実を伝えて一緒に受け入れる努力をする。これこそベストとはいかずもベターな選択なのではないでしょうか?いつもは嘘をつかず、相手を甘やかす嘘もつかず、相手を励ます嘘ならつく。そういったことを心掛けるならば、おのずと信頼してくれる人が周りに現れることと思います。

欲を心から満足できることだけに減らすと、楽に生きていけるよ

 

音楽フェスティバルに向かうバスを見て

 今日の昼間に街に出かけていると、若い人たちがぎゅうぎゅうに詰まったバスがぼくと逆方向に走っていきました。彼らは今日僕の住んでいる街で開催されるらしい音楽フェスティバルに参加するために、定員を10人ほど超えているバスに乗っているのだと思われます。ぼくとしては、”五感を満たすような快楽に入り浸りたい”といった欲求を自分の中で増やし続けると、自分が疲れ切って満身創痍になってもなお快楽を追い続けてしまい、結果として我が身やそれ以上の大切なものですら失ってしまう、快楽依存症を患ってしまう、と考えています。

五感を満たす快楽を追う”リスク”

 五感を満たすこと、例えば親しい友人と買い物に出かけて、お金を払い洋服やおいしい食べ物を買うこと(これによって視覚と味覚が満たされる)、今日のこの街で開催された音楽フェスティバルに参加して、大音量の音楽に心を揺さぶること(これによって聴覚が満たされる)などです。これらの快楽はたまに、なおかつ嗜む程度には行ってもいい、むしろコミュニケーションの場で役に立つと思われることなら行ったほうがいいとも思います。でも”たまに、かつ嗜む程度の少量”という条件を守ることができないなら、その快楽にハマり抜け出すことが困難になります。そうなると大切なものが欠けていき、穏やかで幸せな人生とはかけ離れてしまうのです。もちろん、それを踏まえたうえでハマっているという人もいるかと思います。そんな人は自分の生き方に迷いがないようならその生き方を続けていくべきです人生に絶対はなく、その中であなたの幸せを阻害していい人などいないのですから。しかし、その快楽を追う生き方に躊躇いや危険を感じているのなら、少しずつで何ら問題ないので欲求を少なくしていく努力をするべきです。

欲求を少なくするということ

 ここで「欲求を少なくして快楽に浸らないのなら、幸せはむしろ遠ざかっていくのではないか?」と疑問を持たれる方もいらっしゃるかもしません。しかし、ぼくがいう努力とは欲求を少なくすることだけではありません。もう一つあるのです。それは満足することを知ることです。これはあらゆることに妥協をすることではありません。ただただ今いる自分に満足したり、今持っているものに満足するということなのです。あなたは日本に生まれた時点でありすぎるほどにものに囲まれています。それでも視点は快楽欲求によって破壊され、いつのまにかあるものではなくないものばかり見ている。あるいはあるものを見る視点は、周りの人たちに置いて行かれたくないという恐怖によって破壊されたのかもしれません。あなたは今のままで充分なのに、どうしてないものばかり探しているのでしょうか?まるであくどい刑事の粗探しのようです。しかし、時に人はどういった行動をとれば現状から抜け出せなくなるのかわからなくなる時があります。少なくともぼくはそうでしたので、ほかにそういった方がいらっしゃるなら、その頭が真っ白になりフリーズする感覚がわかります。そんな方に、ぼくが僭越ながらヒントをお教えします。このヒントをそのままお使いになっても、自己流に直してお使いになっても、あなたの役に立てれば本望です。

ぼくが見つけた本のヒント”あるある探検隊ゲーム”

 さて、快楽から逃れるヒントとして、ぼくはあるある探検隊ゲームといったゲームをプレイすることをお勧めします。このゲーム自体は”神様とのおしゃべり”(著者 さとうみつろう)という本が初出なのですが、書き込めるものを用意して、そこに自分が生活している部屋で目につくものの単語を書き、その単語の後ろに~があるという3文字をくっつける、というゲームです。(これはむしろゲームより訓練に近いですが...)これによってとにかくあるものが多いことに気付きます。たしかにないものもあります。でもあるものだって多いのです。そのあるものに満足することで、あなたは快楽欲求に縛られない人生を過ごすことができるのです。これは簡単でかつあっという間に終わるゲームなので、空いた時間に覚えていたなら、だまされたと思ってやるくらい気軽に行うのがちょうどいいと思います。

 

 あるものが多いことに気付いて、それに満足すれば欲が少なくなり、楽に生きていける。快楽を増やすことだけが、幸せへの道ではないのです。

最速で結果を出せそうにないなら、最遅でいいんだよ

 

自分に合った働き方、生き方、見つけよう

 あなたはきびきびと働くビジネスマンな方ですか?それともマイペースで働くような方ですか?どちらも立派な生き方であり比べようがありません。(なぜ比べようがないのかは、前に書いた記事にて説明しています。良かったらお読みください↓)

 

kabisouma.hatenablog.jp

 

自分にとって抵抗感を感じない生き方、働き方をすることで人生を通じて幸せになれます。つまり、自分に合った生き方や働き方をすれば、きっとあなたは幸せになっていくでしょう。これもまた、なにかと比べて理想的な答えが見つかるわけでもなく、そもそも理想なんてないので、気にすることなくどっしり構えて答えを待ちましょう。大丈夫です、自分に合う生き方、焦らなければきっと見つかりますからね。

ぼくが見つけた反完璧主義の心構えとは

 それでも最速で答えを見つけたいと困っている方に、今日はぼくが効率的だと思う目的達成の心構えをお教えします。それは”最速で結果を出せそうにないなら、最遅でいいんだよ”と自分に許可を与える、といった心構えです。急がなきゃ、なにかにとって食われそうだから、という不安は、確かに自分の動きを速めてくれるプレッシャーになってくれるかと思います。でも、科学的にも教訓的にも再三言われてきたように、リラックスしているときでなければ良いパフォーマンスや本来の自分の力は出せないものです。しかし物事には時に期限や規則が決められていて、それを守らなければ誰かしらに迷惑をかけてしまう、だからリラックスできず不安に駆られる、そんな状況もあるでしょう。マイペースなきらいがあるぼくも、学生時代の集団生活の中で頭を悩ませたものです。しかし、ぼくが悩みに悩んだ結果、とあるいいことを思いついてしまいました。それこそ今日の題名にもある”最速で結果を出せなそうにないなら、最遅でいいんだよ”と開き直って制限時間をいっぱいまで使う、というアイディアです。

それぞれの心地よいテンポを守ろう

 規則期限を守らなければ迷惑がかかる。言い換えれ規則期限を守ってさえいれば何をしようがしまいが迷惑になることはない。前者の迷惑におびえる考えは、完璧主義的思考です。ぼくたちは少し完璧主義に凝り固まっているのかもしれません。それによって良いお仕事ができるなら儲けものですが、完璧主義は往々にして理想を高くする、という悪手をぼくたちに強要してくる嫌なやつなのです。理想なんてないのに高みを目指して、そして疲れてしまう。それを防ぎたいがあまり思いついた心構えなのかもしれません。例えば会社でのデータ入力業務などで、決められた期限に対してどういうペース配分をすれば自分は楽なのか、対策を講じる。その場合の対策はそれぞれの個性が現れると思います。思い切ってぎりぎりまで休みを取り、期限が近付いたら一気にお仕事に取り掛かる。はたまたお仕事達成を100と見たときに期限分で割り算をして、逆算して取り組む。自分に合った働き方はこういったところにも表れます。そんな働き方をすることこそ、経済行為の本質でもありやりがいでもある、誰かに感謝されることが増えるようになるかと思うのです。大丈夫、あなたならその働き方がきっとできます。会社員の方なら、その実力を見込まれて入社できたのですから、そんな力のあるあなたならきっとできる。自分を卑下してはいけないのです。そうと決まったら、さあ、自分と向き合って自分の速さを作っちゃいましょう!

競争社会から下りて幸せに生きるための「無為自然」の教え

 

ぼくたちが生きる現代社会の姿

 ぼくたちがいま生きている社会は、一般的に競争社会だとされていますよね。ほしいものがあれば、それを買うためにお金をもらう必要があるから、お金の見返りに多くの人々と競争して誰よりも成功を評価されなければならない。だから現代を生きる人々は勉強後のテストや仕事で作り上げた成果で評価をされて、それを他の誰かと比べ合うことで自分と他の人々との優劣を元にした境界線を引き、評価の優劣のヒエラルキー(評価の高い人を頂点に、評価順に下に並べていったもの)のうち、自分はどこに配置されているのか考えるのです。多くの人から賞賛を受け、お金も名声も持ち合わせる人を目指して誰かと比べ合い戦っていく。そんな社会だといえます。しかし、ぼくはそれが人の幸せのための社会だとどうも思うことができません

比べ合い、勝ち抜くということ

 あなたは比べ合いの中で誰かに負けてしまったり、どれだけ勝ち続けて豊かになろうとしても人生のうちに逆立ちしても勝つことができないと思われる人がいたらどう感じますか?ぼくならば悔しく、悲しい気持ちを感じます。このままだと負けたことでその人よりお金も評価ももらえず、誰かに負けた負け犬というレッテルを自分で自分に貼り付け、もう自分を含めた誰からも評価されることがなくなってしまう、そのようなマイナス思考にとらわれるからです。この地球上には70億人の人間がいるとされています。人気がある仕事で比べ合いをするなら、例え日本一に輝いてもそれより規模の大きい世界一がいることと思います。上には上がいるのです。その中でさえさらに上を目指すものなら必要になってくるものがあります。努力と才能です。そのうちどちらかが足りないともう上に向かうことができず、そもそもどちらかを持っていないのなら小規模な日本の経済上ですら中堅以下のヒエラルキーに甘んじてしまいます。

生まれたときに決まる「格差」

 そもそも競争社会の中では裕福な家庭で生まれたなど、生まれた時の事情で格差が決まるものです。このように、競争社会は搾取するものと搾取されるものではっきりと分かれていた大昔の奴隷制のように、負けた人々のフォローが利かず勝つものがどんどん勝っていくという社会なのです。それゆえにもしあなたの幸せがまた物欲などほかの何かに依存する欲求を満たすことでしか感じられないものであるなら、今の社会体制は居心地が悪い場所以外の何物でもないです。ではどうすればそのような競争社会で幸せに生きていくことができるのでしょうか?それは老荘思想の大家老子が考えた無為自然」の教えを守り、競争から下りたつもりになり穏やかに生きていけばいいのです。

無為自然」の大家”老子

 老子は一般的に紀元前中国の春秋戦国時代を生きたとされています。治安や内政を顧みずほかの国と軍事力を競い豊かさを求め、打ち負かした相手を搾取することに躊躇いがないといった社会で、武力は使わないけれどやっていることが今と変わらない競争社会がこの紀元前にもうすでにあったことには驚きを隠せません。そんな今よりひどい争いの時代に、老子は紀元前の人でありながら奪い合いをすることの虚しさをわかっていました。だからこそ、「無為自然」という教えを考え付いたのです。この「無為自然」とは”物事にことさら干渉せず、わざとらしいふるまいをしないで、自然に帰ったかのようにありのままの自分で生きる”という意味があります。このような生き方をすることで、”満足することを知り、心の豊かさを取り戻すことができる”ようになります。物を買い豊かさを得る行為は心の豊かさを得るために行っています。この教えを守れば本当に必要なもの以外買う意味がなくなる。つまり競争社会から下りることができるのです。

流れるように楽に生きるべし

 現代に生きる人たちは自分の境遇や運命に抗おうと人生の流れに必死に逆流していきます。しかし彼らは知りません。そこまで自分たちは悪い境遇ではなく、むしろ世界的に恵まれた境遇に生まれた人たちであること。それ以上を求めるものなら二兎追う者は一兎を得ないように罰が当たること。それならば自分の今のあふれるほど物が豊かな日本の生活環境に感謝して人生の流れに流されるように生きれば楽に生きることができ、多くの悩みから解放されることを。さあ、浮き輪にでも乗ったかのようにたまには流されるように自然に等身大に過ごしてみましょう。

人生をより面白くするには、問うことこそ大事

 

好奇心を持つと

 あなたは強い好奇心をお持ちですか?好奇心は面白く魅力的な世界を見るためには必要不可欠なものです。なぜなら、好奇心を発揮することによって、新しく出会ったものを深く追及したり、その結果として心に深い感動を与えたりとその輝きがよりありがたいものとなるからです。また、何気ない日常でさえも、好奇心を発揮すれば何かしらの新しい発見ができる起点となり得ます。このように、新たな世界へと足を踏み入れるためには、好奇心が求められるのです。

好奇心を持つためには、疑問に思うべし

 ではどのようにしたら一人ひとりが持つ好奇心を強くすることができるのでしょうか?その方法はいたって単純です。疑問に思う。たったこれだけです。英語の疑問文で用いられる単語を使うと、5W1Hとなります。What(何が),Who(誰が),When(いつ),Where(どこで),Why(なぜ),How(どのように、もしくはどんな方法で)です。これをもとに、あらゆることへの問いをつくって、それに対して自分へ答えを与えてあげるために動く。こうすることであなたの中に眠っている好奇心は呼び起こされ、新たな世界へと導いてくれることでしょう。例として、ぼくはチョコレートの歴史を知りません。それはいったいどのようなものなのか。この前は疑問を持ちました。ここで注意するべき点は、どんな疑問でも無下にしてはいけない、という点です。

無駄なものや知識は無駄なままなのか

 チョコレートの歴史を知ることで人生にどんな影響が出るのかわかりません。しかし、どうして知りたいと思うことと人生に実用的な情報を一致させなくてはならないのでしょうか?古代中国のことばで「無用の用」といったことばがあります。自分に必要なものだけを集めようとして、そのためにいらないと感じたものを切り捨てていくと、知らないうちに自分の進むべき道や進みたい道すら切っていてなくなってしまう、という意味の効率主義に待ったをかけるようなことばです。近頃は無駄と思われた学問はおろそかにされてしまう悲しい事態が起こっています。しかし、人類が積み上げてきた学問に、無駄なものなどそうあったものではないのです。本当にいらないのならそもそも学問として取り上げられることはありません。それを無駄だとか、くだらなく感じるといった理由で拒否して教養の幅を狭める事はもったいないです。かのスティーブ・ジョブズは「点と点がつながる」と言って過去にリード大学にて気まぐれで学んだカリグラフィ(西洋書道)をマッキントッシュの書体に活かすというアイディアを思いつきました。マックのパソコンは一見人生においてあまり役に立ちそうにないカリグラフィがその一部となっているのです。人生何が役に立つかなど先見の明がどんぴしゃりと当たることはそうないと思います。だからこそ、自分の好きなことを学んでもいいのです。それは役に立たないかもしれませんが、役に立つときもあるのです。それは誰にもわかりません。

 

 問いを作ることは慣れるまでは意識的に行う必要がありますが、慣れてしまえば楽しくなること請け合いです。焦ることなく、毎日続けましょう。

あなたが自分に強制するべきことなど、ひとつもない。

 

この間のニュースにて

 この間ぼくは、仕事に対して”苦しい”という言葉では収まり切れないほど疲れ切ったあげく、臨界点を超えて命さえも落としてしまう方がいることをニュースで知りました。辛いことがない人生はありませんが、辛いことしかない人生には生きていく希望がありません。自殺を選んでしまった、あるいは選んでしまいそうな人たちはおそらくこの辛いことしかない人生になってしまったのでしょう。なぜ、彼らはそれほどまでに人生に疲れてしまったのでしょうか?

人生に疲れる理由とは

 人生に疲れた理由の一つに、自分自身が自分に何か嫌なことを強制している」といった理由が上がります。例えば、職業において重要なポストを任されたとき、「この仕事は私が完遂する”べき”なのだ」といったように、~するべきや~しなければならないと思い込むことで自分の思考に強制をして、無理やり行動と思考を一致させようとする試みが、嫌なことの強制に、つまり人生に疲れ切る原因になり得るのです。ぼくは、なぜ死ぬまで嫌なことを自分の体や頭に強制するのかがわかります。

ぼく自身の過去と強制することとの関係

 実をいうと、ぼくは中学一年生のころにいじめをうけ、こころがぐちゃぐちゃに歪んでしまって薬に頼らなければならない状況に陥った時がありました。そのころから、頭ではわかっていながら、周りの人たちから与えられた”不安”が事あるごとにぼくをむしばみ、その不安から自分の行動や言動に強制をかけることが多々あります。不安がぼくを支配するので、その不安から逃れるために、周りの人たちからの抑圧を躱すために自分に強制をかけてしまい、ぼくの本来の姿や思考がわからなくなり、強制されていることすらわからなくなり、よその世界には希望や知らない楽しみなどいくらでもあることを忘れてしまうのです。~するべき、~しなければならないといった考え方は自分主体の自由な人生において害悪でしかありません。しかし、ぼくはそういった考え方をする人たちはその考え方をしたくてしているわけでは、毛頭ないこともまた知っています。彼らには面子があり、矜持があり、富や名声があって、そしてそれらを失いたくないという恐怖があります。彼らにとって積み上げてきたものを彼ら自身の手によって破壊することは、どれほど苦痛であることかは想像に堪えません。

生きるための「破壊的イノベーション

 しかし、ぼくは彼らがいまは生きて生を楽しみ、死ぬべくして死ぬ時まで笑った時の総数を増やすためには心を鬼にしてこう伝えたく思います。「辛いことは重々承知していますが、生きるために勇気を振り絞って、自分が作った自分への強制に立ち向かいましょう。そのために、積み上げてきたものを壊すことを厭ってはいけません。生きてこそのあなたの人生なのですから。」”「超」東大脳”(著者 茂木健一郎)のあるページには破壊的イノベーション、といった言葉が書かれています。この言葉は積み上げてきたものを否定して破壊してこそ、行き詰った道に変革をもたらす、という意味を持っています。スティーブ・ジョブズやジョブ・ベゾス(Amazonの創業者)といった実業家たちが使った手法であり、言わずもがな彼らはそれでぼくたちの生活を豊かにしてくれました。彼らのように積み上げてきた価値観を壊すことはとても難しいことです。しかし、このことから逃げてしまっては残された道は死しかありません。とても厳しいことなのですが、死んでしまってこそ積み上げてきたものが一つももれなく役に立つことはないでしょう。生きてさえいれば辛いことに立ち向かった経験をほかの人のために役に立たせることもかないます。ぼくは簡単なことでほんの短い時間で絶望に打ちのめされることも今でもありますが、そういったときはとにかく無理をしてでも、とても強引だったとしても休みを取ります。他人あってこその富や名声ではありますが、それ以上に自分あってこその人生です

この世界は広い、だから希望を持って

 生が否定されてはいけないといった自己中心思考の意見は好きではありませんが、世界には日本のおよそ70倍もの人々がいます。それほどの物語や世界があるのです。日本にはそれの1%より多いくらいの世界しか広がっていないのに、それだけで全てをつまらないと否定して人生に幕を引くなんてもったいないと思うのです。かならず、よその世界には希望があります。でなければ先進国の自殺率が日本と同等レベルまで上がっていなければつじつまが合いません。だから、大丈夫、なのです。死ぬくらいなら、どうせ死んでしまうのなら一日くらいすっぽかす勢いで休みを取っても問題はありません。あなたが過労が原因で亡くなってしまったら、企業は従業者を殺したと体勢がとても悪くなるのでよほど経営能力に欠けていない限りあなたを休ませざるを得ないのです。だから、大丈夫、です。休む決心が、自分の人生をつかみに行く決心がついたなら、ぼくはこう伝えたく思います。「いってらっしゃい、良い旅路を!」(嫌なことの強制については、違う話題をもとにぼくの別の記事でも触れています)

 

kabisouma.hatenablog.jp

 

無為自然の極意、ありのままで、感じるがままで

 

古代中国思想家の大家、老子

 あなたは老子、という古代中国の思想家をご存知でしょうか?彼は現代の日本でも受け入れられている思想家、孔子儒学的な考えを否定して、むしろ逆の考え方を打ち立てました。ぼくはこの老子道教的な思想こそが、現代の荒波にもまれて生きる人々を救い、人生に疲れた心を癒してくれる考え方である、と考えています。 一体老子が考えた理想的な生き方とはどのようなものだったのでしょうか?

老子の思想と孔子の思想

 一度対極にある思想家の孔子の考え方を整理してみましょう。彼は人の中には必ず善の心が宿っている、それに基づいて仁義を、つまり正しいことをなそうとすることが人の正しい在り方であり、それを多くの人々が行うことができたなら、世の中は安泰へと向かっていくであろう。これが孔子が考えた世の中のあるべき姿です。これに対して老子は、「そもそも仁義や慈愛が必要とされる世の中なら、それは人の生き方がおかしくなっている世の中だ。」と対抗して、おぼろ気でありよくは理解できない存在であるけれども、偉大なる(タオとも読む)に従って、ありのままの自分で流れる水のように生きることが人の正しい生き方であり、それによっておのずと平和になっていく世の中こそ、人が真に追求すべき真理で治まっている世の中である。という思想を考えました。

なぜぼくが老子の思想を推奨するか

 ぼくがこの老子の思想が疲れた人々の癒しになると考えるのには、現代における行き過ぎた向上志向や欲望の過剰捻出が恐ろしいものであるという理由があります。今の世の中は目まぐるしく発展していっています。これは人間の欲望が底なしでありこのままだと満たされることが二度とないことを示しているかのようです。人はどんな環境であれ死に直面するほどの恐怖が続かない限り、やり方ひとつで自分の置かれている生活環境に満足をすることができます感謝の心を忘れず、満足して生きていこうと決意を抱けば、それだけで無意味とも思える生存競争のパワーゲームから抜け出すことができるのです。どれだけあなたが苦しい思いをして莫大な富を得ようと、夢などやりたいことにそぐわない、また富を得ても心に穴が開いているかのように満たされないのでは、苦しい思いをしただけ損になってしまいます。実際にぼくは年収が800万円を超えた時点でそれ以上年収が増えたとしてもその人の幸福度にプラスに作用することはないといったデータを本で読んだことがあります。競争に打ち勝ち大きな富を持ったとしてもその状況が真に満足ができるものでない限りは持つ意味がないのです。逆に言えばどれだけ生活が苦しくても、笑いがあり満たされているような生活は、その裕福な生活を凌駕する幸せがあることでしょう。

道に従い競争をしないことこそ癒しの第一歩

 あなたはもうほかの人と争う必要なんてないのです。自分が満足できるように毎日を生きていけば競争なぞしなくとも満足のいく生活ができます。そして疲れた人生の癒しの第一歩は、その競争社会から精神的にでも降りて、道に従いありのままで特に難しいことを考えることなく毎日を過ごす、こういったことから始まります。