人生に疲れた心を癒す、かびそうまのアローマブログ

ぼくでも、人生に疲れた人を少しだけでも支えられたらいいと思って書いていきます...。

もしあなたの寿命が残り3年しかないなら、と考えることで自分の人生で忘れていたことを思い出せる

 

本当に夢は持っていないのか?

 昨日の記事ではあなたは夢を自分で決めてもいい、なぜならあなたの人生なのだから、といった趣旨で書きました。

 

kabisouma.hatenablog.jp

 

しかし、夢を忘れた方や、そもそも持っていないという方はどうすれば夢を描いて追うことができるのでしょうか?しかし、ぼくはそもそも夢を描くとか、作り直すといった表現はおかしいものであると思います。なぜなら、大人になった人たちは、子供の時にすでに夢を描いていたからです。それを忘れているだけなので今の時点で夢を描くのはナンセンスであると思います。忘れていたのならじっくりと時間をかけてでも思い出せばいいのですから

あなたは残り3年しか生きられないなら何をしたい?

 しかし、思い出すのにもどうすればいいのかわからない、そういった方もいるかと思います。ならばどうすればいいか。ぼくは”20代で始める大好きなことの見つけ方”(著者 本田健という本に書いてあった「自分の寿命が残り3年しかなかった時のことを想像する」という考え方を推奨します。あなたは人生の有限性について考えたことはあるでしょうか?ありとあらゆるものはいつか死んでしまったり、壊れてしまったりする。これは世の中の常だと思います。だからこそ人は惰性に流されることなくいつも楽しく、有意義に生きるべきであるとぼくは思います。有意義に生きるためには、自分に合った生き方を考える必要があります。夢を追いかけることが自分に合った生き方だと思うのなら躊躇する必要はないのです。その自分に合った生き方を見つけるためには、一度自分の命の有限性を思い出すことをお勧めします

墓場まで持っていけるもの

 悲しいかな、ぼくもあなたもやがて死んでしまいます。ぼくは、死んで墓場まで持っていけるものはないわけではない、と思います。一人ひとりの心ならば、死ぬ前には、ひょっとすると死んだ後にも持っていけるものだと思います。あなたは残り3年しか生きられないと仮定します。3年後にあなたの心は後悔することなく持っていけるもの、でしょうか?はっきりと「はい」と肯定できる人ならばその人の人生はとても幸せなものかと思います。たとえつらいことも多かろうと、です。しかしながら、はっきりと肯定ができない人は、自分の人生について考える余地があるかと思います。3年という時は短いように思えて、案外多くのことを行うことができます。研究をするために大学に入学することだって、留学をすることだってできると思います。料理や工業技術、伝統芸能を極めていくことだってできると思います。人はあきらめない限り、何にだってなれるのです。ぼくはあきらめるという行為は人生でやってはいけないことの一つであると考えます。 

人生、何事もあきらめてはいけない

 ”がんでもなぜか長生きする人の「心」の共通点”(著者 保坂隆)という本にて、がんになったことでこの先の命をあきらめ捨て気味に生きているがん治療患者は、あきらめずに立ち向かったり、粛々とでも治療を受けたり、あるいはがんであることを忘れようとしたがん治療患者より早く亡くなったという研究データも残されているそうです。あきらめない限りは人生はよりよくなることを科学的に示した画期的なデータだと思います。あなたもあきらめずに自分のやり方で人生と向き合い、ここではのこり3年の寿命という状況と向き合えば、自分の”本”本心にきつく蓋をしめた夢を開けることができるでしょう。あきらめてはいけません。あきらめなければきっとあなたの人生は好転してゆくのです。

自分の人生なら、夢も自分で決めていい

 

 あなたは夢を持っていますか?

 あなたは自分の行きたい場所ややりたいことなど、死ぬまでに叶えたい夢は持っていますか?夢を持っていると人生を生きていくことに張りが出ていいですよね。しかし、その夢は時として誰かに不正に操作された可能性があるのです。

不正に操作された夢

 例えば、公務員になる、と誰かが志した、としましょう。それ自身は前の記事

 

kabisouma.hatenablog.jp

 

にも書いたとおりに良くも悪くもなく、批判もぐうの音も出ません。そして、その夢の理由は何ですかと問われたとき、安定した生活を送るためや、人の役に立ちたいため、といった理由が浮かびます。それも批判もぐうの音も出ません。しかし、例外として、許すまじ夢や目的があります。

許すまじ例外とは

 その例外とは、「自分の心の奥底で響く声、”本”本心に基づいていない夢や目的」というものです。あなたの夢は誰かに依存していませんでしょうか?誰かありきの夢になってはいませんでしょうか?公務員になりたい理由が安定した生活のためなら、あなたは死んでも危険は冒したくない、リターンよりもリスクを重視して行きたい、という夢があなたの”本”本心ということになります。日々の生活に十分満足をして、感謝を忘れないで生きていく、老荘思想における賢人のような生き方ができるなら、安定に比重を割いた生き方はとても幸せな生き方だと思います。でも、もしなんとなくとか、危険を冒して、それで挫折する中で、それでも別の世界を見つけていく、という生き方を切ることができないのならば、その夢ははっきり言うと夢としてふさわしくないので新たな夢を決めたほうがいいかと思います。ぼくは安定した仕事を批判しているわけではありません。ただ、ぼくは自分のうわべだけの本心の中に隠している、本物の本心、先ほどから言ってきた”本”本心から逃げることはいかがなものかと思います。確かに夢を追うことで周りの人たちに蔑まれることもあるかもしれません。悲しいかな、この世界には大業を応援する人、だけとはいかないものなのです。しかし、周りの人たちからの軽蔑や批判が一体何なのでしょうか?それが実態を持った手となりあなたを鷲掴みにして動けなくする、とでもいうのでしょうか?それは現代の科学においてはあり得ることのない現象なのです。仮にあなたは周りの人たちからの軽蔑や批判で、やはり動けなくなるではないか。今そう思ったとします。しかしそれでも周りの人たちの声は物質的な抑圧にはならないと思います。なぜなら、本当に物質的な抑制をかけているのは紛れもない自分自身なのですから。

自分を縛るのは自分自身

 周りの声に応じて夢を語れば自分と向き合う必要なんてない。あるいは、自分自身がその周りの声に便乗をすれば夢をまっさらにしてボーっと生きていられる。もしくは、そんな人たちに囲まれてついには夢を盗まれてしまったのかもしれません。恐怖も怠惰も原点になり得ますが、いずれにせよ夢にできっこないという蓋をぎゅうぎゅうになるまで押し込み、「やりたいこと、叶えたい本物の夢」を封印するのは自分しかしないのです。それに対してぼくが待ったをかけたいと思っているのには、「その人たちを相手にせず、自由に生きたほうが人生が楽しい」と考えているからです。さっきも言った通り、周りの人たちが物質的な抑圧をあなたの夢にかけることができないのなら、その人たちの精神的な抑圧を受け流し、身を守りながらも自分との対話をして向き合っていくことができる。そしてそのほうが人生が楽しく、また後悔して死にいくこともない、と考えます。自分の”本”本心は自分の本心では考えもつかない幸せへのナビゲートができるからです。もし、その周りの人たちから自分の夢を守っていくと決めたのなら、自分の守り方としては「忘れないようにSNSやブログで少しでいいのでアウトプット(発信)をする」もしくは「周りの人たちのように夢を蔑ろにしない知り合いに向けて夢を語る、相談する」というものがあります。人は一人ではとても夢をかなえることはできません。誰かが協力をしてくれたからこそ、また誰かが自分の基準や価値観をもとに夢やその産物を評価してくれたからこそ、夢はかなうものなのです。どんな優れた人もワンマンで夢を成し遂げることはできませんでしたし、これからもできないと思います。だから助け合いが必要となるのです。どんな出会い方をしてても、この人には打ち明けられる、と思った人にはためらうことなく夢を語るべきです。同様に人の役に立ちたいため、という理由も”本”本心から思うことができなければ、心の澱んだ人間に偽善者扱いされたときに、自分を信じることができず心が折れてしまいます。それに内に秘めている心が引きつっているのに、人のことを考えた仕事ができるのか、と考えると難しい部分も出てきてしまいます。善意は受け取る側と与える側がかみ合っていないのなら押しつけととらえられてしまいます。わからなければ思い切って聞くなどの積極性も発揮することで、あなたの人の役に立ちたいという思いは満たされていくでしょう。

思い出せば夢を叶うもの

 夢はいつかほんとになるーーー。そう歌った歌もあります。しかし、ほんとになるためには本気になる必要が出てきます。自分の人生は自分で決めていい。だから、自分との対話をいとわないことこそ、夢がどこにあったのか、それとどうかかわっていけば自分は幸せとなれるのか、わかるようになるカギとなるかと思います。あなたは何でもできる。あなたは人間であり、偉人もまた人間だからです。あまり紺詰めて夢を追うと疲れてしまいますが、ゆっくりと、あなたの心地の良いペースで追いかけて行ってください。ぼくも、非力ながら応援していますね...。

物事に絶対はない、比べあいをしない限り。 ~初投稿~

 今日、散歩がてら散髪に行くと、ぼくの目の前に白く一面に広がる雲が広がっていました。

 ぼくは雨が降るかな?いやだなぁ・・・と思いました。

 でもぼくが読んだ本には、自分が見て、感じたことだけがすべてではなく、ほかの人やほかの方向から見ればその「見て、感じた」”嫌な”ことはむしろ「見て、感じた」”嬉しい”ことになっている。そう書いていました。

 この雨でダムの干ばつが治って、それによって誰かが助かっていくのならば、雨が降ったら嬉しいことなんだな、そう思い返しました。

 ものの見方に「絶対に!」正しいことはありません。正しいことというのは、間違えたことと比べあうことでようやく生まれるのです。

 だからあなたは楽しく生きていいんですよ?だっていいことも悪いことも比べあわなきゃわかんないから。それは人に迷惑をかけては確かにいけないことだけれども、それは本当にその人に迷惑をかけているのか、傷をつけているのかなんて聞いてみなければ妄想でしかないですよ。物事に絶対はない。だから、卑屈になる必要も見栄っぱりになる理由もないのです。

 物事に絶対はない、比べあいをしない限り。これだけ覚えていってくださいっ!

 ではよい日を~!