人生に疲れた心を癒す、かびそうまのアローマブログ

ぼくでも、人生に疲れた人を少しだけでも支えられたらいいと思って書いていきます...。

リラックスして生きるには、何も考えないようにすればいい。

 

ボーっとすること、ありますか?

 

 あなたは何も考えずにボーっとすることがある方でしょうか。そのボーっとしている時には、全くと言えるほど頭を空っぽにできていますでしょうか。人は顕在意識が気を逸らした隙を見逃さず、あっという間に雑念や煩悩に囚われ苦しんでしまうものです。その雑念・煩悩というのは「明日の会社の上司へのプレゼンテーションは成功するだろうか。失敗したら自分はどうなってしまうのだろうか。」という身の危険からくる恐怖から生まれ出たものかもしれません。また「あの服はかわいいからほしい。でもあのバックもかわいいからほしい。」という世間に操作されて刷り込まれた物欲から生まれ出たものかもしれません。いずれにしても、それらはあなたの心を疲れさせます。厄介なことに心の疲れは新たな雑念や煩悩を生み出します。それによってあなたの心は負のスパイラルに陥り、限界点を超えてしまうと恐ろしい事態になってしまうのです

真面目な方々ほど嵌る、こころの負のスパイラル

 

 しかし現代の競争社会に身を置いていては、そんな負のスパイラルに容易に嵌り抜け出せなくなるでしょう。競争は虚しいものであり、誰かと比べて勝った時にだけ幸せが生まれる状態は万人が幸福になることができない「過去の社会と変わらない」社会でしかないのです。そんな社会ははっきりいって間違っています。もしあなたが努力をしているにも拘らずこの社会で辛い思いをなさっていたとしたら、それはあなたのせいではない。ぼくはそう断言します。この社会はまじめな性格をして優しい心を持つ人格者には生きづらいように設計されているからです

真面目な奴ほど馬鹿を見る理由

 

 真面目でやさしい方々は往々にして感受性の強い賢さがあります。しかし、感受性が強いがゆえにこの社会は腐っていると感じてしまうのです。実際問題、富裕層は幸せの意味をはきちがえている者が多数を占めるために、自分より力を持たない者のなけなしの財産を吸い取ってかりそめの幸せに浸ろうとしています。ですので弱い者いじめが常識的にまかり通っている社会に希望を感じることができないがゆえに、真面目な方々は努力も本来の力も発揮することができないのです。

辛い人生、あなたが選びましたか?

 

 しかし、ここでまじめでやさしい方々にお聞きしたいことがあります。なぜそのような苦しみながら生きる生き方をしているのでしょうか?それが性分であり身に沁みついて取れなくなって仕方がないから、とお答えする方もいると思いますが、それではもう一つお聞きします。その自分の性分に束縛されて辛い人生を、まるで暗闇の荒野をずっとまっすぐ歩き続けるかのような、永遠にさえ感じる苦痛を忍びながら生きていかなければならないとお思いですが、あなたは辛い人生のために生まれてきたのですか?並々ならぬ強みをもつ人なら、辛い人生の中でも生きがいに満ちていると思いその荒野をひた歩くこともできる人もいます。しかし、それは飽くまで”並々ならぬ”強みを持つ人であり、それこそアントレプレナー以上に一握りの天賦の強さを持っていなければ成り立ちません。

責任感に駆られる必要はない

 

 皆が皆強くあることはできないし、体を壊すほどの無理をしてまで強くあろうとする必要はないのです。真面目な方は、人生の中で責任感を重視しがちです。しかしながら、悲しいことに人間の中にはその方々の善意に何の感謝もせず、最悪の場合には善意を叩いて踏みにじる輩だっているのです。そんな中で”世のため人のため”生きることは幸せにつながると思えません。ならば自分のしてきたことに意味はないのか。そう言ってショックを受け塞ぎ込む...。

無は心を癒す力も、人生を好転させる力も生み出す可能性を持つ

 

 このように優れた感受性を活かして考え事をした結果苦しくなる一方なら、いっそのこと普段はしなくとも、少し強引にでも、ボーっとして頭を空にすることが大切なのです。禅の世界では「無は何でもないが故に何にでもなれる」というように無のすごみを説いています。今の世の中は何かにならなければならないと鞭を打たれてきました。そんな世の中に大勢の心が疲れています。辛い生活を大勢にさせるような社会は欠陥していると思います。そんな社会の言うことなど聞く道理はありません。疲れているとか、無意味だと思ったなら競争から下りるべきなのです。

肝心なのは自分を捨てないこと

 

 今の時代はものがありすぎる故にありとあらゆるところに人を惑わせるものがあります。自分は土地や使命に縛られている、といった考えは論語的な考え方です。論語は人為的操作によって世を動かそうとしますが、そのようなことはできません。力を持って仁を生み出し礼に沿ったことをなす。そのようにしていては自然にすら干渉することでしょう。人はどうしようとも自然の一部でしかなく、それ以上になることはできません。そもそも、前近代的思想の基礎になっている科学は自然法則を応用したに過ぎず、結局のところ人は自然の力には勝てずじまいなのです。そんな中で責任を感じて自分に鞭打つことが本来の自分でないなら、それをやめるに越したことはありません。本来の自分であり続ける、そのことは諦めてはならないのです。