人生に疲れた心を癒す、かびそうまのアローマブログ

ぼくでも、人生に疲れた人を少しだけでも支えられたらいいと思って書いていきます...。

「満足することを知る」ことが、楽に生きるための第一歩

 

老子が唱えた「知足」の教え

 

 あなたは今の生活に満足していますか?古代中国が誇る賢者たち諸子百家の中でも、ぼくが特に尊敬している老子という人物がいます。この老子の教えの一つに、「知足」というものがあり、教えの基礎として重要視されています。この「知足」とは、いったいどのような教えでしょうか?

現在も古代も競争社会

 

 この教えは、”足るを知る”とも読むことができ、「満足することを知ることで、穏やかな心で生きていける」という意味があります。老子が生きていた戦乱の世の中では、我先にと物の豊かさを奪うために、多くの国々が他の国に対して戦争を仕掛けていました。これは今の世の中にも通じている点がいくつかありますよね。例えば、プロジェクトで結果を残し、上司や重役に認められて他の同僚よりも出世しようと争う職場。はたまた、受験で好成績を出し、良い大学に進学して、安定した収入を見込める職業に就くために争う高校生活などが通じています。この通じる点があることから、いまの日本社会もまた、物の豊かさを奪うためにほかの人々と争う競争社会となっている。そのように言うことができます。このような奪い合いの時代に対して、老子は「たとえ競争に打ち勝ち、誰かからものを奪って豊かになろうと、この世の無常の掟に逆らうことはできない。」と考えました。

全ては変わり移ろう無常の下にある

 

 無常とは誰もが死ぬさだめであり、変わり移ろうさだであって、人生ははかないものである、といった意味の言葉です。どれだけ身を削って働き、なにかを得たとしても、その栄光は悲しいかな永遠に残るものではありません形あるもの、生き物もただの物もすべて、崩れ壊れていくものだからです。そんな虚しいこの世なのに、人はどうして奪い合って手元の財産を増やすことばかり考えるのでしょうか。それよりも今あるものに感謝して、満足することを知ることができるよう努力するべきなのです。いくら稼いでも、好きなものをたんまり買っても、その人が死んでしまうさだめである以上、物欲を満たすことだけに満足感を感じてはなりません。ものを得て喜ぼうとも、ものを得られず喜ぼうとも喜んだことに変わりありません。むしろ何かを得て喜ぶために、多くの犠牲を自他ともに払ったのなら、ものを得ないが犠牲も出さないで喜ぶ時よりも、損をしているとさえ思えます。得たものは壊れる上、犠牲も多く出してしまうのですから。

自分の人生を自分で決めることが主人公特権

 

 努力を重ねて得た成果は、結局のところ成果事態に意味はなかった。成果によって動かされた、その人の心に意味があるのです。得られる成果に満足しないようならずっとつらい努力を重ねなくてはなりません。そうでなくては、自分のために働いているとは言えない。自分主体でないなら、仕事をするために生きていると気味悪がられても文句が言えないのです。あなたの人生で主人公はあなたです。でも主人公である、とは無理をして大業をなすことではありませんあなたはどう生きるか選択できる、という意味での主人公なのです。無理に何かを得たとしても、それは壊れるし、無理したところで満足しないでしょう。あなたが行こうとしている道は、本当にあなたを満足させてくれるのでしょうか?成功のための道は虚しさを生みます。こう言われて立ち止まるようなら、無理せず後戻りしましょう。そして今あるもので満足することを知りましょう

物はたんまりある。あとは満足を知るだけ

 

 あなたの周りには案外ものがあふれています。そんな贅沢な環境に身を置きながら、もっと欲しいと勘違いして、本当は自分の心にすでにある満足感を無視していては、科学的な根拠はなかろうと、因果応報と言われるように不幸なことが起こるでしょうあなたは幸せになるべき人間ですそしてあなたは、これ以上無理してまでがんばらなくても、満足感を知り味わっていいのですいま、ここから幸せで満足していくことに、誰かから許可をもらう必要なんてありません。あなたは、自分のことを自分で決めていい「主人公」であり、一人前の人間です。悩みを抱えながらも、この記事を読んでくださった方は、もう「悩む」という大人への通過儀礼を、立派に果たしたのですから。満足することを知ること。意識しすぎると窮屈になってしまいますが、少しずつ、無理をなさらないように、この考え方を身に着けていってください。