人生に疲れた心を癒す、かびそうまのアローマブログ

ぼくでも、人生に疲れた人を少しだけでも支えられたらいいと思って書いていきます...。

古きを生きた偉人たちから学んで、新しい自分を作っていこう

 

 f:id:Kabisouma:20171216155129j:plain

古くからあるものは最新のものに劣るのか?

 

 ぼくの生まれ故郷である福島県南相馬市の隣にある、相馬市には大堀相馬焼という陶器の伝統工芸品があります。緑色の陶器に馬の焼き入れ模様が付いていて、ぼくの祖父母はそれを使って料理を作っていました。昔から存在するものでも、今日まで在り続けられているものは一握りのものしかないとぼくは思います。なぜ残り続けられるのか。それは、現代に住むぼくたちにも魅力的に映っているからです。歴史を学ぶ意味が分からない、偉人の考えは偉人だからこそできたもので、ぼくたちには到底できるものではない。そのように考えている方がいると思いますが、それは違います。あまりに難解なものは、たとえ由緒正しいものでも魅力もまたわかりにくいので廃れていくからです。今日は偉人の考えや歴史など、古きを生きたものを学ぶ意味をお教えします。

歴史を学ぶ意味

 

 歴史を学ぶ意味や魅力は、自分の可能性を広げることができる点が挙げられます。織田信長は、鉄砲をポルトガルやスペインから買い集めたり桶狭間の戦いで夜戦を仕掛け兵力差で完敗していた今川軍を討ちました。ぼくはそんな信長公は現代におけるスティーブ・ジョブズに通じる信念や突飛な発想性を持っていたと思います。しかしながら、信長公はもしも世界を知って日本の狭さを学んでいなかったなら、うつけものと称された少年時代すらもなかったはずです。うつけものとは諸大名を油断させる演技でしかなく、彼らからの批判は耳にもしなかったと思います。信長公はさっさと日本を平定し、外交政策をとらなければ日本を支配されると思っていた、つまりは諸大名よりも先を見ることができていたからです。世界を知らないならそんな可能性は当然ながら生まれません。ぼくたちにも言えることです。歴史を重んじ偉人たちの世界を一つずつ見ていくことによって、見えるものが多くなっていきます。先だって見ることもできます。そして見えたものの中には自分の生きがいに合ったものがあると思います。ぼくは諸子百家の先生たちをリスペクトしていました。彼らは賢いと称され、ぼくの人生にきっと役に立つことを残していると思ったからです。結果としてその予想はあっていました。ぼくは苦しみに飲み込まれそうになった時、老子無為自然の教えと出会って自分の人生の生き方を変えることができました。古いものに興味がないからと言って無下に扱っていては、楽しくなり得る人生もつまらなくなってしまいます

失敗の歴史からも学んでいける

 

 歴史には成功から模範的に学ぶことができますが、失敗からも反面教師的に学ぶことができます。戦争は多くの命が奪われ、人工物自然物共に破壊される凄惨な悲劇です。しかし、ぼくたちが戦争を悲劇だと認識できるのには、戦争を経験した先人たちがその悲劇ぶりを歴史として残していってこそ認識できるのです。人は間違いを正すことはできますが、間違いを新しく起こす可能性はあります。新しく起こってしまったなら仕方ないです。しかし同じ過ちを繰り返すことは、できる可能性を放棄していることです。歴史から学べば、いかにして間違いが起こったのか学ぶことができると思います。なぜ間違いが起こったのかがわかれば、それと別のことをすれば同じ間違いはしないので対策は楽になります。例えばフロンガスの問題。フロンガスを使用する電化製品がよく生産されていましたが、いまは生産されていません。これは、フロンガスを必要とする電化製品を使うと、その使用終わりの時に排出されるフロンガスオゾン層を破壊してしまうといった失敗があったからです。ぼくたちを危険な紫外線から守ってくれるオゾン層を破壊してしまっては、人類の存続にかかわってきます。よってフロンガスの使用は抑制されているのです。このように、歴史にはこれが成功と思っていたことが覆るなんて失敗はよくあります。それを正すことができれば、汚名返上となってこれからの成功にさえつながっていくのです。

今の効率主義に対しての特効薬

 

 今の社会では、利便性が最も追及されています。その弊害として自身の首を絞めていることには気づいてはいません。有用不要を突き詰めていくと、上記の利点を見失い歴史は過去のものだから不要と勘違いされかねません。また、ぼくの生まれ故郷で作られている大堀相馬焼も、利便性だけを求めるなら生産コストや耐久年数が良いプラスチック製の食器でいいでしょう。そのような利便性追求志向のしわ寄せが、ぼくたちにどんどん迫ってきています。今の地球はあまりに汚染されていて、かつ今の人たちはお金や便利性がある暮らしはしてるけど、どこか満足していません。何かを失っているのです。古きを生きた偉人やものから学んで、失った何かを取り戻し、新しい自分や生活を作っていきましょう。

余分に物を買ったり受け取ったりする癖を見直してみよう。

 

 f:id:Kabisouma:20171212170526j:plain

ぼくたちが好きなこと”買い物”

 

 ぼくたちは、お金を稼いではそれを使って買い物をすることが大好きです。生きるための買い物や、夢や理想の実現のために必要な買い物も当然ながらあります。しかし、買い物の多くは必要のないものを買うことになりがちです。例えば、化粧品は本当に必要だと自分が思うものを買い揃えるだけでもお化粧は成り立つと思います。でも、そのようなことを分かっていても、必要以上に化粧品を買うことはよくあると思います。必要なものを買っても満足できず、余計なものまで買いだめをして自分の財布を寒くする。そんな自分を情けなく思い、嫌う人もいると思いますが、ひょっとすると必要以上にものを買い込む癖の裏側には、自分が認識できない深層意識が関係しているかもしれません。なぜ深層意識がものを買い込むべきだと思っているのでしょうか?

物を買い込むのには理由がある

 

 深層意識がものを買い込むべきと思う理由には、ぼくたちがよく見るマスメディア”テレビ”が関係してきます。テレビは放送局が練るに練って番組を編み出し、それを放送する”一般企業”です。(NHKは除く。)一般企業は主に社の利益の追求や経済行為の循環効率化を目指して働いています。従ってぼくたちが毎日見ている番組にも経済行為の仕掛けがあります。わかりやすいのはコマーシャルでしょう。番組の合間に放送されますね。あれは意識せずに流し見をしている人も多いと思いますが、その流し見に最初の理由である”刷り込み効果”があります。同じ情報を何度も放送し無意識レベルにまで刷り込むことによって、小売店に行ったときに目に入ってはこれを買おうとなるのです。その商品は何度も流し見をしたCMのおかげでどのようなものかわかっているので、安心してお金を使うことができます。テレビのみならず、ふらっと立ち寄った小売店の中でも物を買うべきと思う理由が隠れています。あなたがよく行くお店を思い出してください。一つや二つほど、他の商品よりも高いものがあるかもしれません。それこそ、次の理由です。あえて価格設定を高くして、他の商品がいかにお得かを演出しているのです。高い商品の隣に多少の差はあれどお買い得の商品があったら、と考えてください。お買い得品を買わなくては、と思ってレジに並ぶことでしょう。その商品が必要以上のものだったら、高いものも安いものも結局は損になってしまいます。使わない機会が生まれてしまい効率が悪くなるからです。このように、あらゆる宣伝があなたの周りを囲んでいて、その環境に長くいた結果、余分に物を買ったり受け取ったりして収納スペースを圧迫するのです。

買い物をするときは自分と相談して吟味しよう

 

 ここで整理したいことがあります。ぼくは、読者の方々に”物を買うな”と念を押しているのではない、ということです。物は買ってもいいです。ぼくはポケモンが大好きなので新作のポケモンゲームが出たなら買うことでしょう。しかし、物は買っていいですが、その買い物は本当にあなたを満足させるものか、考えたうえで買うことが前提です。ぼくがポケモンの新作ゲームを買うだろうと言う理由は、ぼくはポケモンのコンテンツを愛しているからです。カビゴンをはじめかわいいポケモンたちが好きだし、白熱する他プレイヤーとの対戦はとても楽しいです。このような明確な好みや理由がわかないゲームはぼくはむやみやたらに買いませんし、買っても自分に合わないと思い中古ゲームとして売ります。あなたはルイヴィトンのバックを買いたいと思うとき、それが見栄などではなく、創業者のモノづくりの理念やバックのデザイン性にすごくほれ込んだなら、それは無駄な出費ではなく自分にとって必要な出費でしょう。そこからバックなどのファッションデザイナーになりたいといった夢も生まれるかもしれません。大切なのは自分がどう思っているかはっきりしてから買うことです。ぼんやりとした思いや衝動買い、会わせたくない周りの人たちとの話題作りにする買い物はご法度でしょう。

お金を使わずものを貯めないことで得る”豊かな生活”

 

 あなたがお金よりも使わないものが多いような方なら、今回の記事を見てなぜそのようなお金の使い方をするのかわかりましたか?すべてはあなたが汗水たらして働いた成果を自分たちの私腹を肥やすために摘み取ろうとする、幸せの意味を履き違えている富裕層の罠なのです。本当に必要なものを買って、それで満足するようになれば、お金は溜まって、収納スペースが余り、文字通り余裕ができます。その上ものに執着しなくなって心が軽くなるので一石三鳥なのです。余分な出費やものを見直し、本来持っているはずの豊かな生活を楽しんでください。

幸せのために自分との信頼関係を持とう

 

f:id:Kabisouma:20171210150342j:plain

自分との信頼関係ができていない人は多い

 

  あなたはあなた自身について何か知っていますか?最近耳にするのは、自分が何をしたいのかわからない、自分に自信がない、といった自分に対して信頼感を持っていないような言葉です。なぜ自分との信頼関係を築いていないのでしょうか?

子供時代の感情抑圧があなた自身との信頼を絶つ

 

 あなたがもし自分との信頼関係を築けていないと感じるなら、それは子供時代に親など重要な人物の言いなりになって感情を封印されていた可能性があります。人間は様々な感情を感じます。感情を感じるからこそ我々はここまで発展することができました。しかしながら、時折家庭では親にとってあっては困る感情を子どもが持った時に、叱責や蔑みなどしてその子が持つ感情を妨げる時があります。その感情妨害が続いてしまうと、ついには自分の感情や自分自身までもがわからなくなってしまいます。厳密に言うと自分自身についてわかっておきながら、何も分かっていないふりをすることによって、だれにも責められなくことを荒げることなく済ます。そのように立ち回ることが当たり前で疑問を抱かなくなる。その状態こそが自分がわからない、自分を信頼できていない状態なのです。何も感情を感じないと、これからの人生はとてもつらいものになるでしょう。実りがある可能性も薄いです。自分の今の人生をおろそかにして、この先の人生にこれからの楽しみをキャリーしていく、そんな生き方をしても、今の自分に嘘をついている時点で満足した人生を歩めない可能性が出てきます。

自分を裏切って誰かに依存しても結局は孤独になる

 

 なぜ自分に嘘をついて生きているのか。自分に嘘をついた挙句命を落としたとしても、だれもその人と一緒に命を落としてくれる人はいません。悲しいかな、人間死んでしまうときは必ず孤独です。命の行き着く先に孤独が待っているというのに自分を信じずだれに依存する生き方はもったいないです。もしこの記事を読んでくださっている方で、自分ではなく誰かに尽くし過ぎている方にあえて言わせていただくと、あなたはあなたです。あなたの手も、見えている記事や世界も、今あなたが持っている感情も他の誰のものでもありません。あなたのものです。あなたは自然体の貴方でいることが最も誇らしいとぼくは思います。あなたが感じるものはどれだけ情報技術が進んでいようが今の科学では再現不可能なのですから。(一人ひとりの脳の感じ方の違いをクオリアと言います。)あなたが何かを普通に感じて感動することは、今の科学は再現できません。科学の先を行っている存在なのです。自分を信頼するに至る理由はこれです。一人ひとりのものの感じ方に価値があるのです。

自分との信頼関係を築くための二つのメゾット

 

 しかしながら、ぼくは自分をやり方がよくわからないと前に進めない人間だと思っています。ヒントがあればいいのですがそこまで書いてある本は少ないとも思っています。すべての答えを教えて人が考える機会を奪ってはいけないと何かで教わりましたが、それを考える状況に至ってない人に押し付けることは悪である、とぼくは思います。どうすれば無くなっていた自分との信頼関係を取り戻すことができるのか、ぼくが考えたことを紹介します。自分との信頼関係を築くには、まず自分のことを恐れずに知り表現することが大切です。恐れずに、と書いたのは、上記のような恐ろしい体験を今までしてきた方にとって、急に自分の本当の感情を嘘偽りなく知るといったことはとても怖いことだからです。でも、今はあなたは一人の大人です。孤独でもあるけど、自由で縛られていないとも思います。ゆっくりでいいので自分の感情を知っていってください。完全にわからなくても、知ろうと努めただけで立派な進歩です。自分を知って表現できるようになった次にすることは、自分を受け入れることです。自分は自分と改めて認識することです。お金持ちが羨ましい、スタイルのいい美人が羨ましい。そういった価値観は、全部誰かありきの間違った価値観です。貧乏だろうが不細工だろうが、あなたはあなたであることが最大の個性であり、価値があるのです。自分は自分で、たとえコンプレックスを抱えていても、それを受け入れることで絶対に幸せになれます。この二つのメゾットは目には見えない精神的なものですが、実行していけば自分を信頼していけるようになります。

自分は自分、他人は他人

 

 自分を信頼できていなかった人はコチコチまでにまじめな人が多いです。これは自分を誰かしらに受け入れてもらうためであり、自分を隠しています。その人の本性ではないです。その生き方が辛いと思っている方、そんな生き方なんてもうしなくていいのですよ。だって、あなたはあなたなんですから。あなたであることが最大の価値なんですから。前を向いて歩いて意向だなんて言いません。それが辛い方だっています。ぼくはこう言いたいのです。自分の方を向いて歩いていこう。

ペットが死んでいなくなってしまうのは、命の尊さを教えてくれるから

 

好きな生き物の死との直面

 

 ぼくの好きな動物に、スキニーギニアピッグという動物がいます。この動物はモルモットの品種の一つであり、顔の前の部分にしか毛が生えていない珍しい品種です。ぼくはそんなスキニーギニアピッグの動画(ごはんですよ~ - YouTube)を見ては癒されていました。ある日動画についていたリンクを辿ると、飼い主の方のブログ(☆彡もるち~な毎日♡)に着きました。そのブログは更新が何年もされておらず、不思議に思って最後の記事を読んでみると、そこにはぼくの好きなスキニーギニアピッグが死んでしまったといった訃報が書かれていました。飼い主の方には至らないかと思いますが、ぼくもまた悲しい気持ちに包まれました。でも、別の日にイギリスのある格言と出会って、ぼくたちが買うペットがなぜ死んでいくのか、彼らの死の意味を理解することができました。それをお伝えします。

ペットたちの命の輝き

 

 その格言をざっくり要約すると、ペットが死ぬのは、彼らが自らの命をもって飼い主に生き物のそれぞれが持つ命の尊さを教えるためだ、とありました。このブログを読んでくださる方々の中にもペットを飼っている方もいるかと思います。ペットはいつか死んでしまいますよね。その時には言い表せないほどの大きな悲しみに包まれるかと思います。愛する者が死んでしまうということはそのようなことなのです。それは自分のみならず、他の誰でも悲しいものです。だからこそ、我々は自然体の自分をうけいれて、また友人のもそうでない他人のもありのままの姿を貴ぶことが幸せにつながっていくのです。人にちっぽけな人も全能に近しい優れた人もいません。ただ自分とかあなたとかの人格や個性があるだけです。だから他人に対して劣等感を感じることも、優越感を感じることもおかしな話なのです。もしそれらを感じてしまうようならば、自分に核を持っていないと言えます。自分の核を持たないまま、もしくは持たされないまま大人になったかもしれません。ひどい場合にはペットなど生き物の死から学んでいない恐れがあります。生き物の命がそれぞれ尊いのなら、自分のことを尊敬できるし、相手のことも尊敬できるはずです。自分や相手のことを尊敬する、ということはそのままの自然体を受け入れることであり、そこには優劣が存在しません。あなたはあなたのままでいいし、他の人は他の人のままでいい。受け入れることは辛いことかもしれないけれど、それでもあの子たちのかわいらしい生き様に応えるために、何より自分自身の幸せのために、受け入れようと思うだけでもいいのでするべきなのです。

 

自分もあなたも尊い命を持っている

 

 ここ最近高速道路でのあおり運転によって引き起こされた事故、それによって人が亡くなってしまうなど、痛ましい出来事が起こっています。それは人が自分を含め誰も受け入れられていないが故に起こっているとぼくは思います。ペットも愛する人もいつかは滅びてしまう無常の世の中、だからこそ自分を受け入れ、それによってほかの人も受け入れることによって、余生においての真の富である幸せが享受できるのだと思います。ペットたちがぼくたち人間に最期に語ってくれることは、そんな命の尊い輝きなのです。

 

満足して生きていくため、無為自然に生きよう ①

 

ブログのテーマにもある無為自然の教え

 

 このブログのテーマには、タオイズムや老荘思想を信じて生きていく、といったテーマがあります。それに関した記事もよく書いていたと思います。でも、そもそも無為自然とはいったいどのようなものか、ぼくのつたない文章力も相まってご存じでない方もいらっしゃるかと思います。この記事では、無為自然とはどのような概念でぼくたちの生活にどう関わっていくのか、また、その重要さを説いた老子にぼくがなぜ心酔していったのか、説明していこうと思います。

無為自然とは何か

 

 まず、無為自然の考えについて説明していきます。無為自然とは、文語体に直すと、つまり漢文だった元の文を古文の形へと直していくと、「為すこと無く、自ずと然り」という文章になります。これを現代文の形、つまり口語体に直すと「ことさらなことはせず、無理をすることなく、自然とそうなっていく」という訳文になります。つまり、あれしよう、これしようと心に次の欲求を溜め込みかなえるために働くのではなく、何か大いなる自然のエネルギーに導かれるかのように、自然の流れに身を任せていく。これが幸せの道なのだ。この訳文を踏まえてぼくが重要だと思った部分を自分の言葉を使って直しました。この考えに従っていくとぼくたちの生活は自然に近づいていき、そして幸せに近づいていきます。それはなぜか。老子は人間は自然の一部でしかないので、自然に近づいていくことが幸せであると考えていました。これらの考えには、過去からより一層加熱した競争社会の虚しさや、どれほど富を積んでいっても結局のところ満たされることはないという真実が根幹にあります。その根幹部分に共感し、引かれたからこそぼくは老子に心酔しているのです。

ぼくが老子にハマったわけ

 

 では、どういった考えのもとでぼくは老子の教えに共感したのでしょうか。ぼくたちが生まれたこの日本という国は、先進国で、その先進国の中でもお金を非常に稼いでいるような国です。稼いでいるということはお金を持っているということで、ぼくたちの一般的な考えである資本主義的な考えからすると幸せ感も付随して高くなければ、お金を持ち好きなものを買って、それに囲まれることが豊かな生き方であるといった資本主義国の理論は間違っている、ということになります。ぼくが思うに、この国ははっきり言って不幸や絶望が蔓延していると思います。それを如実に表すのが自殺率です。日本の自殺率は人口の19.5%と他の先進国に比べて非常に高く最悪レベルというのが、他の国の人々の見解です。実際問題、世界保健機関(WHO)の2013年以降の自殺率を各国悪い順に並べると、リトアニアや韓国、スリナムスロベニアに次いでハンガリーとの同一5位です。韓国を除く他の国々は元社会主義国であり風土的に自殺が多くなる厳しい環境ですので、自殺率が高くなってしまうことには、論理的には理解できます。しかしながら、戦後すぐに政界に大きな改革がもたらされ、平等と資本主義の社会となった日本でこれほどまで自殺率が高いという結果には、今の生活も社会もイデオロギーも間違っており、ぼくたちのライフスタイルも、ぼくたちの生きる社会も、両方に見直しが必要であると思わざるを得ないのです。そこで出会ったのが老子の教えです。この教えは日本に蔓延している根性や努力をもってお金を稼ぎ幸せな家庭を築くといった考え方を否定し、人為的にあれこれしようと考えずに、ありのままで生きることの大切さを説いています。これこそが真実と、いま苦しんでいるぼくたちを救う一筋の光と思ったので、ぼくは心から無為自然の教えが素晴らしいと信じることができるのです。

 無為自然の教えはただあることを許してくれるような、懐の深い教えです。その温かさをこのブログで伝えていきたく思います。

心を癒す実践的な休息法 ~マインドフルネス瞑想について~

 

 

ぼくの注目”マインドフルネス”

 f:id:Kabisouma:20171024071415j:plain

 皆さまはマインドフルネスという単語について何かご存知でしょうか?マインドフルネスとは、英語ではmindfulnessと書いて、注意深さという意味が当てはまります。身体中のあらゆる感覚に注意する、ということがマインドフルネスの大まかな説明としてふさわしいと思います。このマインドフルネスは近年の脳科学・神経学の研究の賜物もあって、疲れた時や傷ついたときに心を癒す実践的なメゾットとして注目されてきています。一体、マインドフルネスにはどのような効果があるのでしょうか。また、マインドフルネスとは具体的にはどうすれば実践できるのでしょうか。

心を癒す”マインドフルネス”とは

 

 まず、マインドフルネスにどのような効果があるのか、説明していきます。マインドフルネスは、精神科や心療内科の病院で行われるTMS磁気治療と似たような効果があります。具体的に言うと、これらは脳の働きの一つであるDMNデフォルト・モード・ネットワーク)を抑制する効果を持っています。DMNは我々が食事でとりこんだエネルギーの20%を用いて意識的な活動をしていないときに、意識の外で働いています。本の説明によると、このDMNは車のアイドリングストップに似ているとのことです。これによって、脳はあらゆる反応に対して、反射的に動くことができるのだとぼくは考えます。あなたは、子供のころに炊飯器の水蒸気に触って、あまりの暑さに瞬間的に手を引っ込めたことはありませんでしょうか。これ以外にも、熱すぎるものや冷たすぎるものに触れてすぐに手を引っ込めた経験はあるかと思います。これはまさにDMNが無意識に働いていて、そのおかげで危機的な状況に瞬間的に反応できたのだと思うのです。しかしながら、このDMNは危機的な状況に陥ることが少なくなった現代において、あまり活動しないものの余分に体のエネルギーを消費している大食漢でしかないのです。このDMNのせいで、あなたも疲れてしまったことは多いかと思います。「一日中ボーっとして休んでいたのに、疲れが取れなかった」といったことはありませんか。これはDMNが多大なエネルギーを消費していることが原因です。このように、DMNには利点もあるものの、大きな欠点もまた抱えています。その欠点はうつ病ADHDにも関わっていて、TMS磁気治療をしてでも補いたくなるほど大きなものです。そのDMNを抑えていくために、マインドフルネスは重要な役割を担っているのです。

具体的な”マインドフルネス瞑想”の方法

 

 次に、どうすればマインドフルネス瞑想が実践できるのか説明します。マインドフルネス瞑想は、まず椅子に座ることから始まります。瞑想と言っても、無理をして床に座ってあぐらをかいて、といったことは不要で、一は椅子に座ることをお勧めします。このとき、背中を軽く引っ張るように立たせ、お腹は少し膨らませてもいいのでゆったりとさせます。その後に、足がじんわり引っ張られているような、もしくは床と触れていて暖かくなっているような”感覚”を感じるように集中します。このときに重要だと思うことは、まるで木を見ず森を見るかのように、とにかく集中しようとはしないことだと思います。効率よく、また手早く疲れた心を癒したい気持ちはとてもよくわかります。でも、それでも集中しようと真面目に意識するものなら癒される効果は減ってしまい、瞑想に必要な時間がどんどん増えていきます。焦る気持ちが瞑想で余らせたエネルギーを使ってしまうからです。ここは、時に流されるかのように、感覚を感じることを長く待つこの姿勢がマインドフルネス瞑想にて重要なんだと思います。そして、先ほど足に向けていた意識を、上へもっていき呼吸に向けていきます。先ほどのゆっくりじんわり集中を呼吸に向けるのです。ここでも、上で書いたことを守り、とにかく待つことが重要です。はっきりというと、呼吸をする、のはご法度です。正しいのは、呼吸を待つ、です。これも先ほどと同じで、真面目に息を吸おうと意識することで脳がせっかく余らせたエネルギーを持ってってしまいます。それだと時間が増えていきますよね。身体は呼吸をしないとどうなるかもう分り切っています。ここは呼吸は身体に任せて、あなたの意識は感覚に集中しましょう。最後に、いくら感覚に集中して呼吸を待っていても、それでも雑念というものは湧いてきます。ここでもご法度があります。雑念を沸かせた自分の脳を、ひいては自分自身を何が何でも責めてはいけない、というものです。これは、雑念が湧くことは人間として当たり前のことで、普段通りの呼吸で、息がちょっと荒くなっても責めないように、あなたがあなたを責めるまでもないようなことだからです。ああ、雑念湧いちゃったな。そう思った後にゆっくりと呼吸待ちに戻っていく。その動作が雑念との共生に重要なんです。ここまでがマインドフルネス瞑想の基本的なルールとなります。

いまの世の中への特効薬

 

 いまの世の中は、何かになることを、何かをすることを当たり前としてとにかく動く働くことを強制されています。これでは疲れることもやむなしでしょう。ブレーキが壊れた車がガソリンをずっと使っていくのとおんなじです。そこで、今回はマインドフルネス瞑想というおすすめの心の癒し方を説明しました。朝5分早く起きてやる、夜5分長く起きてやるなど、自分との約束を決めるとより効果的になるとのことです。しかし、ぼくはその約束に囚われることなく自然に瞑想していくことをお勧めします。こちらに、今回の参考文献の「最高の休息法」(著者 久賀谷 亮 氏)の商品ページへの案内を張らせていただきます。この本には今回紹介できなかった瞑想法や、この記事よりもより筋道が通った論文参照の瞑想紹介ストーリーが書かれています。興味がある方、興味がわいた方、是非お読みください。

 

 

 

(瞑想 画像引用元 https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/k_shingu/20160806/20160806224858.jpg)

過去の恐怖に心を支配されても、いつか晴れる日は来る。

 ついこの間まで、ぼくはこのブログを書くことを誰かに強制されているかのような、閉塞感と恐怖におびえてパソコンを立ち上げることができませんでした。ぼくは早く自立しろと、友だちや親に言われていました。でも、ぼくはそのような言葉を、ぼくを思ってのものではなく自分たちの保身のために発しているのだと思っています。もしぼくに本当に病気とともに歩んでいってほしいと思っているのなら、早く自立してほしいと思っているのなら、鞭を打つような言葉は逆効果です。なぜなら、そのような言葉は本人にとってプレッシャーでしかなく、やる気につながる要素がないので、おびえて動けなくなることが関の山だからです。現に、ぼくは今日までブログを書いて読者の皆さまの心の疲れを取りながら生きていくことに不安を感じていました。先々のことを考えさせられるような自立しろとの言葉は、先にありそうな恐怖を鮮明に考える癖がある人にとって、どれだけ苦痛になるのかが言う側の人はわからないのだと思います。大切なことは今ここに生きることであり、先々の不安を恐れていると、脳が委縮してしまいます。このことは科学的根拠も発見されています。

 しかし、その事実を伝えるには、両親には伝えることができるけれども、友だちの方は伝わる見込みも、伝える勇気もありません。両親とは違って、ぼくの友だちは独善的で自分の考えを押し付けるような性格でした。彼とはとても親しくしていましたが、社会の風潮がその友情を引き裂いたのか、あるいは彼はもともと頑固だったのか、知る由もありませんが、彼はぼくが学校を卒業した後は上記のような性格になってしまいました。あまりの言い草に彼との電話の途中で過呼吸になったこともありました。しかし、彼はそれでもしっかりしろとの一点張りで、言うことを変えません。そんな友だちからの恐怖が根付いているので、今日まで更新がされることがありませんでした。

 ぼくは、誰かのせいでこうなったのだと父に話すと、人のせいにしないでとよく言われます。人のせいにすることで自分のしでかした罪から逃れようとしている、そう考える人の意見もわかります。しかし、その本人の言い分が正しかったなら、責任から逃れようとしている人たちは、むしろその人のせいだと示された人たちです。アスペルガー症候群も、うつ病も、心の疲れも、本人がなりたくてそうなったわけでは決してありません。何かしらの外的要因は必ずあります。それなのに人のせいにするなと言ったり、その人たちを責めたりけなしたりすることは、実に冷酷なことであり、その冷たさが正当化され罷り通るいまの世の中は乱れに乱れています。

 上記のようなことでこの記事を読んでいる心が疲れた人たちの悲しみを、小さいブログながら言わせていただきます。ぼくたちは、つらいです。ぼくたちは、苦しいです。助けてください。この文が誰かの目に留まって、何かを思っていただけたのなら、記事の作成者としてこの上ない喜びです。つらさが伝わったのですから。