人生に疲れた心を癒す、かびそうまのアローマブログ

ぼくでも、人生に疲れた人を少しだけでも支えられたらいいと思って書いていきます...。

幸せのために自分との信頼関係を持とう

 

f:id:Kabisouma:20171210150342j:plain

自分との信頼関係ができていない人は多い

 

  あなたはあなた自身について何か知っていますか?最近耳にするのは、自分が何をしたいのかわからない、自分に自信がない、といった自分に対して信頼感を持っていないような言葉です。なぜ自分との信頼関係を築いていないのでしょうか?

子供時代の感情抑圧があなた自身との信頼を絶つ

 

 あなたがもし自分との信頼関係を築けていないと感じるなら、それは子供時代に親など重要な人物の言いなりになって感情を封印されていた可能性があります。人間は様々な感情を感じます。感情を感じるからこそ我々はここまで発展することができました。しかしながら、時折家庭では親にとってあっては困る感情を子どもが持った時に、叱責や蔑みなどしてその子が持つ感情を妨げる時があります。その感情妨害が続いてしまうと、ついには自分の感情や自分自身までもがわからなくなってしまいます。厳密に言うと自分自身についてわかっておきながら、何も分かっていないふりをすることによって、だれにも責められなくことを荒げることなく済ます。そのように立ち回ることが当たり前で疑問を抱かなくなる。その状態こそが自分がわからない、自分を信頼できていない状態なのです。何も感情を感じないと、これからの人生はとてもつらいものになるでしょう。実りがある可能性も薄いです。自分の今の人生をおろそかにして、この先の人生にこれからの楽しみをキャリーしていく、そんな生き方をしても、今の自分に嘘をついている時点で満足した人生を歩めない可能性が出てきます。

自分を裏切って誰かに依存しても結局は孤独になる

 

 なぜ自分に嘘をついて生きているのか。自分に嘘をついた挙句命を落としたとしても、だれもその人と一緒に命を落としてくれる人はいません。悲しいかな、人間死んでしまうときは必ず孤独です。命の行き着く先に孤独が待っているというのに自分を信じずだれに依存する生き方はもったいないです。もしこの記事を読んでくださっている方で、自分ではなく誰かに尽くし過ぎている方にあえて言わせていただくと、あなたはあなたです。あなたの手も、見えている記事や世界も、今あなたが持っている感情も他の誰のものでもありません。あなたのものです。あなたは自然体の貴方でいることが最も誇らしいとぼくは思います。あなたが感じるものはどれだけ情報技術が進んでいようが今の科学では再現不可能なのですから。(一人ひとりの脳の感じ方の違いをクオリアと言います。)あなたが何かを普通に感じて感動することは、今の科学は再現できません。科学の先を行っている存在なのです。自分を信頼するに至る理由はこれです。一人ひとりのものの感じ方に価値があるのです。

自分との信頼関係を築くための二つのメゾット

 

 しかしながら、ぼくは自分をやり方がよくわからないと前に進めない人間だと思っています。ヒントがあればいいのですがそこまで書いてある本は少ないとも思っています。すべての答えを教えて人が考える機会を奪ってはいけないと何かで教わりましたが、それを考える状況に至ってない人に押し付けることは悪である、とぼくは思います。どうすれば無くなっていた自分との信頼関係を取り戻すことができるのか、ぼくが考えたことを紹介します。自分との信頼関係を築くには、まず自分のことを恐れずに知り表現することが大切です。恐れずに、と書いたのは、上記のような恐ろしい体験を今までしてきた方にとって、急に自分の本当の感情を嘘偽りなく知るといったことはとても怖いことだからです。でも、今はあなたは一人の大人です。孤独でもあるけど、自由で縛られていないとも思います。ゆっくりでいいので自分の感情を知っていってください。完全にわからなくても、知ろうと努めただけで立派な進歩です。自分を知って表現できるようになった次にすることは、自分を受け入れることです。自分は自分と改めて認識することです。お金持ちが羨ましい、スタイルのいい美人が羨ましい。そういった価値観は、全部誰かありきの間違った価値観です。貧乏だろうが不細工だろうが、あなたはあなたであることが最大の個性であり、価値があるのです。自分は自分で、たとえコンプレックスを抱えていても、それを受け入れることで絶対に幸せになれます。この二つのメゾットは目には見えない精神的なものですが、実行していけば自分を信頼していけるようになります。

自分は自分、他人は他人

 

 自分を信頼できていなかった人はコチコチまでにまじめな人が多いです。これは自分を誰かしらに受け入れてもらうためであり、自分を隠しています。その人の本性ではないです。その生き方が辛いと思っている方、そんな生き方なんてもうしなくていいのですよ。だって、あなたはあなたなんですから。あなたであることが最大の価値なんですから。前を向いて歩いて意向だなんて言いません。それが辛い方だっています。ぼくはこう言いたいのです。自分の方を向いて歩いていこう。

ペットが死んでいなくなってしまうのは、命の尊さを教えてくれるから

 

好きな生き物の死との直面

 

 ぼくの好きな動物に、スキニーギニアピッグという動物がいます。この動物はモルモットの品種の一つであり、顔の前の部分にしか毛が生えていない珍しい品種です。ぼくはそんなスキニーギニアピッグの動画(ごはんですよ~ - YouTube)を見ては癒されていました。ある日動画についていたリンクを辿ると、飼い主の方のブログ(☆彡もるち~な毎日♡)に着きました。そのブログは更新が何年もされておらず、不思議に思って最後の記事を読んでみると、そこにはぼくの好きなスキニーギニアピッグが死んでしまったといった訃報が書かれていました。飼い主の方には至らないかと思いますが、ぼくもまた悲しい気持ちに包まれました。でも、別の日にイギリスのある格言と出会って、ぼくたちが買うペットがなぜ死んでいくのか、彼らの死の意味を理解することができました。それをお伝えします。

ペットたちの命の輝き

 

 その格言をざっくり要約すると、ペットが死ぬのは、彼らが自らの命をもって飼い主に生き物のそれぞれが持つ命の尊さを教えるためだ、とありました。このブログを読んでくださる方々の中にもペットを飼っている方もいるかと思います。ペットはいつか死んでしまいますよね。その時には言い表せないほどの大きな悲しみに包まれるかと思います。愛する者が死んでしまうということはそのようなことなのです。それは自分のみならず、他の誰でも悲しいものです。だからこそ、我々は自然体の自分をうけいれて、また友人のもそうでない他人のもありのままの姿を貴ぶことが幸せにつながっていくのです。人にちっぽけな人も全能に近しい優れた人もいません。ただ自分とかあなたとかの人格や個性があるだけです。だから他人に対して劣等感を感じることも、優越感を感じることもおかしな話なのです。もしそれらを感じてしまうようならば、自分に核を持っていないと言えます。自分の核を持たないまま、もしくは持たされないまま大人になったかもしれません。ひどい場合にはペットなど生き物の死から学んでいない恐れがあります。生き物の命がそれぞれ尊いのなら、自分のことを尊敬できるし、相手のことも尊敬できるはずです。自分や相手のことを尊敬する、ということはそのままの自然体を受け入れることであり、そこには優劣が存在しません。あなたはあなたのままでいいし、他の人は他の人のままでいい。受け入れることは辛いことかもしれないけれど、それでもあの子たちのかわいらしい生き様に応えるために、何より自分自身の幸せのために、受け入れようと思うだけでもいいのでするべきなのです。

 

自分もあなたも尊い命を持っている

 

 ここ最近高速道路でのあおり運転によって引き起こされた事故、それによって人が亡くなってしまうなど、痛ましい出来事が起こっています。それは人が自分を含め誰も受け入れられていないが故に起こっているとぼくは思います。ペットも愛する人もいつかは滅びてしまう無常の世の中、だからこそ自分を受け入れ、それによってほかの人も受け入れることによって、余生においての真の富である幸せが享受できるのだと思います。ペットたちがぼくたち人間に最期に語ってくれることは、そんな命の尊い輝きなのです。

 

満足して生きていくため、無為自然に生きよう ①

 

ブログのテーマにもある無為自然の教え

 

 このブログのテーマには、タオイズムや老荘思想を信じて生きていく、といったテーマがあります。それに関した記事もよく書いていたと思います。でも、そもそも無為自然とはいったいどのようなものか、ぼくのつたない文章力も相まってご存じでない方もいらっしゃるかと思います。この記事では、無為自然とはどのような概念でぼくたちの生活にどう関わっていくのか、また、その重要さを説いた老子にぼくがなぜ心酔していったのか、説明していこうと思います。

無為自然とは何か

 

 まず、無為自然の考えについて説明していきます。無為自然とは、文語体に直すと、つまり漢文だった元の文を古文の形へと直していくと、「為すこと無く、自ずと然り」という文章になります。これを現代文の形、つまり口語体に直すと「ことさらなことはせず、無理をすることなく、自然とそうなっていく」という訳文になります。つまり、あれしよう、これしようと心に次の欲求を溜め込みかなえるために働くのではなく、何か大いなる自然のエネルギーに導かれるかのように、自然の流れに身を任せていく。これが幸せの道なのだ。この訳文を踏まえてぼくが重要だと思った部分を自分の言葉を使って直しました。この考えに従っていくとぼくたちの生活は自然に近づいていき、そして幸せに近づいていきます。それはなぜか。老子は人間は自然の一部でしかないので、自然に近づいていくことが幸せであると考えていました。これらの考えには、過去からより一層加熱した競争社会の虚しさや、どれほど富を積んでいっても結局のところ満たされることはないという真実が根幹にあります。その根幹部分に共感し、引かれたからこそぼくは老子に心酔しているのです。

ぼくが老子にハマったわけ

 

 では、どういった考えのもとでぼくは老子の教えに共感したのでしょうか。ぼくたちが生まれたこの日本という国は、先進国で、その先進国の中でもお金を非常に稼いでいるような国です。稼いでいるということはお金を持っているということで、ぼくたちの一般的な考えである資本主義的な考えからすると幸せ感も付随して高くなければ、お金を持ち好きなものを買って、それに囲まれることが豊かな生き方であるといった資本主義国の理論は間違っている、ということになります。ぼくが思うに、この国ははっきり言って不幸や絶望が蔓延していると思います。それを如実に表すのが自殺率です。日本の自殺率は人口の19.5%と他の先進国に比べて非常に高く最悪レベルというのが、他の国の人々の見解です。実際問題、世界保健機関(WHO)の2013年以降の自殺率を各国悪い順に並べると、リトアニアや韓国、スリナムスロベニアに次いでハンガリーとの同一5位です。韓国を除く他の国々は元社会主義国であり風土的に自殺が多くなる厳しい環境ですので、自殺率が高くなってしまうことには、論理的には理解できます。しかしながら、戦後すぐに政界に大きな改革がもたらされ、平等と資本主義の社会となった日本でこれほどまで自殺率が高いという結果には、今の生活も社会もイデオロギーも間違っており、ぼくたちのライフスタイルも、ぼくたちの生きる社会も、両方に見直しが必要であると思わざるを得ないのです。そこで出会ったのが老子の教えです。この教えは日本に蔓延している根性や努力をもってお金を稼ぎ幸せな家庭を築くといった考え方を否定し、人為的にあれこれしようと考えずに、ありのままで生きることの大切さを説いています。これこそが真実と、いま苦しんでいるぼくたちを救う一筋の光と思ったので、ぼくは心から無為自然の教えが素晴らしいと信じることができるのです。

 無為自然の教えはただあることを許してくれるような、懐の深い教えです。その温かさをこのブログで伝えていきたく思います。

心を癒す実践的な休息法 ~マインドフルネス瞑想について~

 

 

ぼくの注目”マインドフルネス”

 f:id:Kabisouma:20171024071415j:plain

 皆さまはマインドフルネスという単語について何かご存知でしょうか?マインドフルネスとは、英語ではmindfulnessと書いて、注意深さという意味が当てはまります。身体中のあらゆる感覚に注意する、ということがマインドフルネスの大まかな説明としてふさわしいと思います。このマインドフルネスは近年の脳科学・神経学の研究の賜物もあって、疲れた時や傷ついたときに心を癒す実践的なメゾットとして注目されてきています。一体、マインドフルネスにはどのような効果があるのでしょうか。また、マインドフルネスとは具体的にはどうすれば実践できるのでしょうか。

心を癒す”マインドフルネス”とは

 

 まず、マインドフルネスにどのような効果があるのか、説明していきます。マインドフルネスは、精神科や心療内科の病院で行われるTMS磁気治療と似たような効果があります。具体的に言うと、これらは脳の働きの一つであるDMNデフォルト・モード・ネットワーク)を抑制する効果を持っています。DMNは我々が食事でとりこんだエネルギーの20%を用いて意識的な活動をしていないときに、意識の外で働いています。本の説明によると、このDMNは車のアイドリングストップに似ているとのことです。これによって、脳はあらゆる反応に対して、反射的に動くことができるのだとぼくは考えます。あなたは、子供のころに炊飯器の水蒸気に触って、あまりの暑さに瞬間的に手を引っ込めたことはありませんでしょうか。これ以外にも、熱すぎるものや冷たすぎるものに触れてすぐに手を引っ込めた経験はあるかと思います。これはまさにDMNが無意識に働いていて、そのおかげで危機的な状況に瞬間的に反応できたのだと思うのです。しかしながら、このDMNは危機的な状況に陥ることが少なくなった現代において、あまり活動しないものの余分に体のエネルギーを消費している大食漢でしかないのです。このDMNのせいで、あなたも疲れてしまったことは多いかと思います。「一日中ボーっとして休んでいたのに、疲れが取れなかった」といったことはありませんか。これはDMNが多大なエネルギーを消費していることが原因です。このように、DMNには利点もあるものの、大きな欠点もまた抱えています。その欠点はうつ病ADHDにも関わっていて、TMS磁気治療をしてでも補いたくなるほど大きなものです。そのDMNを抑えていくために、マインドフルネスは重要な役割を担っているのです。

具体的な”マインドフルネス瞑想”の方法

 

 次に、どうすればマインドフルネス瞑想が実践できるのか説明します。マインドフルネス瞑想は、まず椅子に座ることから始まります。瞑想と言っても、無理をして床に座ってあぐらをかいて、といったことは不要で、一は椅子に座ることをお勧めします。このとき、背中を軽く引っ張るように立たせ、お腹は少し膨らませてもいいのでゆったりとさせます。その後に、足がじんわり引っ張られているような、もしくは床と触れていて暖かくなっているような”感覚”を感じるように集中します。このときに重要だと思うことは、まるで木を見ず森を見るかのように、とにかく集中しようとはしないことだと思います。効率よく、また手早く疲れた心を癒したい気持ちはとてもよくわかります。でも、それでも集中しようと真面目に意識するものなら癒される効果は減ってしまい、瞑想に必要な時間がどんどん増えていきます。焦る気持ちが瞑想で余らせたエネルギーを使ってしまうからです。ここは、時に流されるかのように、感覚を感じることを長く待つこの姿勢がマインドフルネス瞑想にて重要なんだと思います。そして、先ほど足に向けていた意識を、上へもっていき呼吸に向けていきます。先ほどのゆっくりじんわり集中を呼吸に向けるのです。ここでも、上で書いたことを守り、とにかく待つことが重要です。はっきりというと、呼吸をする、のはご法度です。正しいのは、呼吸を待つ、です。これも先ほどと同じで、真面目に息を吸おうと意識することで脳がせっかく余らせたエネルギーを持ってってしまいます。それだと時間が増えていきますよね。身体は呼吸をしないとどうなるかもう分り切っています。ここは呼吸は身体に任せて、あなたの意識は感覚に集中しましょう。最後に、いくら感覚に集中して呼吸を待っていても、それでも雑念というものは湧いてきます。ここでもご法度があります。雑念を沸かせた自分の脳を、ひいては自分自身を何が何でも責めてはいけない、というものです。これは、雑念が湧くことは人間として当たり前のことで、普段通りの呼吸で、息がちょっと荒くなっても責めないように、あなたがあなたを責めるまでもないようなことだからです。ああ、雑念湧いちゃったな。そう思った後にゆっくりと呼吸待ちに戻っていく。その動作が雑念との共生に重要なんです。ここまでがマインドフルネス瞑想の基本的なルールとなります。

いまの世の中への特効薬

 

 いまの世の中は、何かになることを、何かをすることを当たり前としてとにかく動く働くことを強制されています。これでは疲れることもやむなしでしょう。ブレーキが壊れた車がガソリンをずっと使っていくのとおんなじです。そこで、今回はマインドフルネス瞑想というおすすめの心の癒し方を説明しました。朝5分早く起きてやる、夜5分長く起きてやるなど、自分との約束を決めるとより効果的になるとのことです。しかし、ぼくはその約束に囚われることなく自然に瞑想していくことをお勧めします。こちらに、今回の参考文献の「最高の休息法」(著者 久賀谷 亮 氏)の商品ページへの案内を張らせていただきます。この本には今回紹介できなかった瞑想法や、この記事よりもより筋道が通った論文参照の瞑想紹介ストーリーが書かれています。興味がある方、興味がわいた方、是非お読みください。

 

 

 

(瞑想 画像引用元 https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/k_shingu/20160806/20160806224858.jpg)

過去の恐怖に心を支配されても、いつか晴れる日は来る。

 ついこの間まで、ぼくはこのブログを書くことを誰かに強制されているかのような、閉塞感と恐怖におびえてパソコンを立ち上げることができませんでした。ぼくは早く自立しろと、友だちや親に言われていました。でも、ぼくはそのような言葉を、ぼくを思ってのものではなく自分たちの保身のために発しているのだと思っています。もしぼくに本当に病気とともに歩んでいってほしいと思っているのなら、早く自立してほしいと思っているのなら、鞭を打つような言葉は逆効果です。なぜなら、そのような言葉は本人にとってプレッシャーでしかなく、やる気につながる要素がないので、おびえて動けなくなることが関の山だからです。現に、ぼくは今日までブログを書いて読者の皆さまの心の疲れを取りながら生きていくことに不安を感じていました。先々のことを考えさせられるような自立しろとの言葉は、先にありそうな恐怖を鮮明に考える癖がある人にとって、どれだけ苦痛になるのかが言う側の人はわからないのだと思います。大切なことは今ここに生きることであり、先々の不安を恐れていると、脳が委縮してしまいます。このことは科学的根拠も発見されています。

 しかし、その事実を伝えるには、両親には伝えることができるけれども、友だちの方は伝わる見込みも、伝える勇気もありません。両親とは違って、ぼくの友だちは独善的で自分の考えを押し付けるような性格でした。彼とはとても親しくしていましたが、社会の風潮がその友情を引き裂いたのか、あるいは彼はもともと頑固だったのか、知る由もありませんが、彼はぼくが学校を卒業した後は上記のような性格になってしまいました。あまりの言い草に彼との電話の途中で過呼吸になったこともありました。しかし、彼はそれでもしっかりしろとの一点張りで、言うことを変えません。そんな友だちからの恐怖が根付いているので、今日まで更新がされることがありませんでした。

 ぼくは、誰かのせいでこうなったのだと父に話すと、人のせいにしないでとよく言われます。人のせいにすることで自分のしでかした罪から逃れようとしている、そう考える人の意見もわかります。しかし、その本人の言い分が正しかったなら、責任から逃れようとしている人たちは、むしろその人のせいだと示された人たちです。アスペルガー症候群も、うつ病も、心の疲れも、本人がなりたくてそうなったわけでは決してありません。何かしらの外的要因は必ずあります。それなのに人のせいにするなと言ったり、その人たちを責めたりけなしたりすることは、実に冷酷なことであり、その冷たさが正当化され罷り通るいまの世の中は乱れに乱れています。

 上記のようなことでこの記事を読んでいる心が疲れた人たちの悲しみを、小さいブログながら言わせていただきます。ぼくたちは、つらいです。ぼくたちは、苦しいです。助けてください。この文が誰かの目に留まって、何かを思っていただけたのなら、記事の作成者としてこの上ない喜びです。つらさが伝わったのですから。

人間関係で疲れないためのコミュニケーション法

 

一人では生きていけないけど関係もまた窮屈な現代

 

 人は一人では生きていけない。ぼくが聞く歌にも使われているような言葉です。この言葉は真実であり、ぼくがたった今使っているパソコンも、多くの人が関わって努力を重ねてできた逸品です。あなたが今日食べたご飯もまた、米農家に始まり、運送業者、卸売・小売店それぞれのバイヤーの皆様の下を通ってあなたの下へやってきました。時代が新しくなるにつれて、このように間接的につながる人は増えていくと思います。そして間接的につながる人以前に、地方や他国からあなたの職場をはじめとして、周りに多くの人が来るようにもなり直接的にかかわる人も増えました。そのような時代にも拘わらず、コミュ障といった俗語が作られるように、人とのコミュニケーションが苦手とする人が多いと聞きますね。ぼくとしては、コミュニケーションを無理にしなければいけないような、密すぎる社会はかえって発展しすぎていると思います。しかしながら、いますぐに社会は変わることはありません。そんな社会からすぐに足を洗うことも難しいとも思います。その場しのぎでも、心の底からコミュニケーションがしたくとも、その方法を知っておくべきです。

本心を伝えることが一番の、でも難しいコミュニケーション法

 

 コミュニケーション法といっても、ぼくがお伝えするのは心構えのように、精神論でどうあればいいかというものです。しかし、この精神論は、理解することはとても簡単ですが、かといって実践するとなると難しいものです。その方法とは、「相手に本心を偽りなく伝える」という方法です。当たり前のことをすればいいのです。しかし、ツイッターをはじめとするSNSでの発信文化の世の中では、この当たり前のことを忘れて、自分の気持ちや本当の姿を偽って伝えることが多いと感じます。核家族化や両親の共働きが進んだ結果、自分は愛されていると自信をもてた子ども時代を過ごせずに、その埋め合わせで自信や自尊心を満たすために、バーチャルの世界で自分や相手に嘘をつく。それをずるずると引きずっていくと、ここ一番というときに自分の身の丈を超えるような発言をしてしまい、大事な相手からの信頼に傷をつけてしまうのです。また、バーチャル世界で嘘をついてきた結果、バーチャルの距離感が抜けずに生身の人間とは話す時にどうすればいいかわからなくなる。これがコミュ障の正体だと思います。ともすれば、もう嘘はつかずに自分の本心を伝えればいい。これは難しいことではあります。

相手にも自分にも嘘をつかないことが疲れなくする秘訣

 

 自分のことをさらけ出して、拒否されることは怖いです。しかし、自分の本当の姿を見てくれない相手は、そちらの方が何かしらの問題を抱えている場合もあります。本当に至らないのは相手か自分かわからないのです。そうなると考えるだけ時間がもったいないです。その上人と人には相性がどうやっても生じます。相性が合わない人もいます。そういう人は必要以上に話しかけなくてもいいです。相性の問題上、万人に好かれるようにコミュニケーションをとることは無理に等しいのですから。人に合わせようとせず、また自分に合わせようとさせず、ただただ本心を伝える。それがどんな結果になろうと、結局のところ等身大の自分を裏切らないことこそ、人間関係で疲れないためのコミュニケーション法だと思います。

身近な自然と触れ合い、人生への疲れを癒す方法

 

都市暮らしで疲れた時には

 

 たくさんの人や物が行き交う都市部で生活をしていると、その利便性や人の多さから大小さまざまなトラブルやストレスが生じますよね。そういったところから離れて、田舎でのスローライフにあこがれる人もまた多いと思います。しかし、今の会社での職務に対する責任や、金銭面の問題から、いますぐに田舎へ飛び出してスローライフを満喫する、といったことが難しいとお考えの方は多いです。いますぐに動けないのなら、いまの仕事が嫌でもこなさなくてはならず、その嫌な仕事から心が疲れて、ひいては疲れが原因で何もかもに疲れてしまう、そんな恐れがあります。これが、人生に疲れるということです。このような状態では、スローライフのことを含めいろいろな夢がおっくうになってしまいますね。この記事では、そのように仕事などのストレスから来た心の疲れを、あなたの身近にある自然と触れ合うことで癒せるといった疲れの取り方について提案をさせていただきます

人間を含めて動物は自然の下にみな平等

 

 なぜ自然と触れ合うと心が癒されるのか。科学的には自然が持つ揺らぎのおかげとか、マイナスイオンが発生しているからとか、様々な根拠があげられると思いますが、ぼくはその科学的根拠以前に、人は自然から生まれた天然物であるからだと思います。あなたは、自分に優しく接してくれる人と一緒にいて、安らぐことなく不快になるでしょうか?多くの人は嬉しく、リラックスできることでしょう。自然は人間を含め様々な動物に牙を剥きますが、それと同時に優しい母親のように動物たちを風や小川などで癒してくれます。このブログでたびたび出てくる老子老子についてはこちらの記事もご参照ください↓)

 

kabisouma.hatenablog.jp

 

は「天は絶対的な正義ではない。どんなものもちっぽけに、平等に扱うのだ」という言葉を残しました。天、つまり自然はどんなものにもえこひいきすることがないので、あらゆる生物が脅威も恩恵も受けることができるのです。

近くの公園の木でもいい。触れ合い忘れていたものを思い出そう

 

 しかし、自分の周りにはこれと言って自然物が見当たらない、そうお考えになるかもしれません。ご安心ください。あなたの近くに高雄山のような広大な自然がなくても、ビル群に囲まれた小さな公園で自然に触れ合うことが十分できます。その公園に木は植えられているでしょうか。もし木が植えられているなら、あとは簡単に触れ合い、自然の広大さを感じ、心を癒すことができます。その木や、木の枝に触れたりじっくり観察したり、文字通り触れあってください。同じ木でも、隣に植えてある木とは手に伝わる感触が違うでしょう。また、木の模様は一本一本違うことでしょう。こうやって、身近な公園の木々と触れ合うことで、人は自然から生まれてきたもので、その自然に帰ろうとすることが癒されることと分かります。心が疲れてきていると、このような大切なことが抜け落ちていってしまいます。あなたの住んでいるところから公園が近いなら、自然と触れ合い、忘れたことを思い出して、心を癒してください。