人生に疲れた心を癒す、かびそうまのアローマブログ

ぼくでも、人生に疲れた人を少しだけでも支えられたらいいと思って書いていきます...。

競争社会から下りて幸せに生きるための「無為自然」の教え

 

ぼくたちが生きる現代社会の姿

 ぼくたちがいま生きている社会は、一般的に競争社会だとされていますよね。ほしいものがあれば、それを買うためにお金をもらう必要があるから、お金の見返りに多くの人々と競争して誰よりも成功を評価されなければならない。だから現代を生きる人々は勉強後のテストや仕事で作り上げた成果で評価をされて、それを他の誰かと比べ合うことで自分と他の人々との優劣を元にした境界線を引き、評価の優劣のヒエラルキー(評価の高い人を頂点に、評価順に下に並べていったもの)のうち、自分はどこに配置されているのか考えるのです。多くの人から賞賛を受け、お金も名声も持ち合わせる人を目指して誰かと比べ合い戦っていく。そんな社会だといえます。しかし、ぼくはそれが人の幸せのための社会だとどうも思うことができません

比べ合い、勝ち抜くということ

 あなたは比べ合いの中で誰かに負けてしまったり、どれだけ勝ち続けて豊かになろうとしても人生のうちに逆立ちしても勝つことができないと思われる人がいたらどう感じますか?ぼくならば悔しく、悲しい気持ちを感じます。このままだと負けたことでその人よりお金も評価ももらえず、誰かに負けた負け犬というレッテルを自分で自分に貼り付け、もう自分を含めた誰からも評価されることがなくなってしまう、そのようなマイナス思考にとらわれるからです。この地球上には70億人の人間がいるとされています。人気がある仕事で比べ合いをするなら、例え日本一に輝いてもそれより規模の大きい世界一がいることと思います。上には上がいるのです。その中でさえさらに上を目指すものなら必要になってくるものがあります。努力と才能です。そのうちどちらかが足りないともう上に向かうことができず、そもそもどちらかを持っていないのなら小規模な日本の経済上ですら中堅以下のヒエラルキーに甘んじてしまいます。

生まれたときに決まる「格差」

 そもそも競争社会の中では裕福な家庭で生まれたなど、生まれた時の事情で格差が決まるものです。このように、競争社会は搾取するものと搾取されるものではっきりと分かれていた大昔の奴隷制のように、負けた人々のフォローが利かず勝つものがどんどん勝っていくという社会なのです。それゆえにもしあなたの幸せがまた物欲などほかの何かに依存する欲求を満たすことでしか感じられないものであるなら、今の社会体制は居心地が悪い場所以外の何物でもないです。ではどうすればそのような競争社会で幸せに生きていくことができるのでしょうか?それは老荘思想の大家老子が考えた無為自然」の教えを守り、競争から下りたつもりになり穏やかに生きていけばいいのです。

無為自然」の大家”老子

 老子は一般的に紀元前中国の春秋戦国時代を生きたとされています。治安や内政を顧みずほかの国と軍事力を競い豊かさを求め、打ち負かした相手を搾取することに躊躇いがないといった社会で、武力は使わないけれどやっていることが今と変わらない競争社会がこの紀元前にもうすでにあったことには驚きを隠せません。そんな今よりひどい争いの時代に、老子は紀元前の人でありながら奪い合いをすることの虚しさをわかっていました。だからこそ、「無為自然」という教えを考え付いたのです。この「無為自然」とは”物事にことさら干渉せず、わざとらしいふるまいをしないで、自然に帰ったかのようにありのままの自分で生きる”という意味があります。このような生き方をすることで、”満足することを知り、心の豊かさを取り戻すことができる”ようになります。物を買い豊かさを得る行為は心の豊かさを得るために行っています。この教えを守れば本当に必要なもの以外買う意味がなくなる。つまり競争社会から下りることができるのです。

流れるように楽に生きるべし

 現代に生きる人たちは自分の境遇や運命に抗おうと人生の流れに必死に逆流していきます。しかし彼らは知りません。そこまで自分たちは悪い境遇ではなく、むしろ世界的に恵まれた境遇に生まれた人たちであること。それ以上を求めるものなら二兎追う者は一兎を得ないように罰が当たること。それならば自分の今のあふれるほど物が豊かな日本の生活環境に感謝して人生の流れに流されるように生きれば楽に生きることができ、多くの悩みから解放されることを。さあ、浮き輪にでも乗ったかのようにたまには流されるように自然に等身大に過ごしてみましょう。