人生に疲れた心を癒す、かびそうまのアローマブログ

ぼくでも、人生に疲れた人を少しだけでも支えられたらいいと思って書いていきます...。

人間関係で疲れないためのコミュニケーション法

 

一人では生きていけないけど関係もまた窮屈な現代

 

 人は一人では生きていけない。ぼくが聞く歌にも使われているような言葉です。この言葉は真実であり、ぼくがたった今使っているパソコンも、多くの人が関わって努力を重ねてできた逸品です。あなたが今日食べたご飯もまた、米農家に始まり、運送業者、卸売・小売店それぞれのバイヤーの皆様の下を通ってあなたの下へやってきました。時代が新しくなるにつれて、このように間接的につながる人は増えていくと思います。そして間接的につながる人以前に、地方や他国からあなたの職場をはじめとして、周りに多くの人が来るようにもなり直接的にかかわる人も増えました。そのような時代にも拘わらず、コミュ障といった俗語が作られるように、人とのコミュニケーションが苦手とする人が多いと聞きますね。ぼくとしては、コミュニケーションを無理にしなければいけないような、密すぎる社会はかえって発展しすぎていると思います。しかしながら、いますぐに社会は変わることはありません。そんな社会からすぐに足を洗うことも難しいとも思います。その場しのぎでも、心の底からコミュニケーションがしたくとも、その方法を知っておくべきです。

本心を伝えることが一番の、でも難しいコミュニケーション法

 

 コミュニケーション法といっても、ぼくがお伝えするのは心構えのように、精神論でどうあればいいかというものです。しかし、この精神論は、理解することはとても簡単ですが、かといって実践するとなると難しいものです。その方法とは、「相手に本心を偽りなく伝える」という方法です。当たり前のことをすればいいのです。しかし、ツイッターをはじめとするSNSでの発信文化の世の中では、この当たり前のことを忘れて、自分の気持ちや本当の姿を偽って伝えることが多いと感じます。核家族化や両親の共働きが進んだ結果、自分は愛されていると自信をもてた子ども時代を過ごせずに、その埋め合わせで自信や自尊心を満たすために、バーチャルの世界で自分や相手に嘘をつく。それをずるずると引きずっていくと、ここ一番というときに自分の身の丈を超えるような発言をしてしまい、大事な相手からの信頼に傷をつけてしまうのです。また、バーチャル世界で嘘をついてきた結果、バーチャルの距離感が抜けずに生身の人間とは話す時にどうすればいいかわからなくなる。これがコミュ障の正体だと思います。ともすれば、もう嘘はつかずに自分の本心を伝えればいい。これは難しいことではあります。

相手にも自分にも嘘をつかないことが疲れなくする秘訣

 

 自分のことをさらけ出して、拒否されることは怖いです。しかし、自分の本当の姿を見てくれない相手は、そちらの方が何かしらの問題を抱えている場合もあります。本当に至らないのは相手か自分かわからないのです。そうなると考えるだけ時間がもったいないです。その上人と人には相性がどうやっても生じます。相性が合わない人もいます。そういう人は必要以上に話しかけなくてもいいです。相性の問題上、万人に好かれるようにコミュニケーションをとることは無理に等しいのですから。人に合わせようとせず、また自分に合わせようとさせず、ただただ本心を伝える。それがどんな結果になろうと、結局のところ等身大の自分を裏切らないことこそ、人間関係で疲れないためのコミュニケーション法だと思います。

身近な自然と触れ合い、人生への疲れを癒す方法

 

都市暮らしで疲れた時には

 

 たくさんの人や物が行き交う都市部で生活をしていると、その利便性や人の多さから大小さまざまなトラブルやストレスが生じますよね。そういったところから離れて、田舎でのスローライフにあこがれる人もまた多いと思います。しかし、今の会社での職務に対する責任や、金銭面の問題から、いますぐに田舎へ飛び出してスローライフを満喫する、といったことが難しいとお考えの方は多いです。いますぐに動けないのなら、いまの仕事が嫌でもこなさなくてはならず、その嫌な仕事から心が疲れて、ひいては疲れが原因で何もかもに疲れてしまう、そんな恐れがあります。これが、人生に疲れるということです。このような状態では、スローライフのことを含めいろいろな夢がおっくうになってしまいますね。この記事では、そのように仕事などのストレスから来た心の疲れを、あなたの身近にある自然と触れ合うことで癒せるといった疲れの取り方について提案をさせていただきます

人間を含めて動物は自然の下にみな平等

 

 なぜ自然と触れ合うと心が癒されるのか。科学的には自然が持つ揺らぎのおかげとか、マイナスイオンが発生しているからとか、様々な根拠があげられると思いますが、ぼくはその科学的根拠以前に、人は自然から生まれた天然物であるからだと思います。あなたは、自分に優しく接してくれる人と一緒にいて、安らぐことなく不快になるでしょうか?多くの人は嬉しく、リラックスできることでしょう。自然は人間を含め様々な動物に牙を剥きますが、それと同時に優しい母親のように動物たちを風や小川などで癒してくれます。このブログでたびたび出てくる老子老子についてはこちらの記事もご参照ください↓)

 

kabisouma.hatenablog.jp

 

は「天は絶対的な正義ではない。どんなものもちっぽけに、平等に扱うのだ」という言葉を残しました。天、つまり自然はどんなものにもえこひいきすることがないので、あらゆる生物が脅威も恩恵も受けることができるのです。

近くの公園の木でもいい。触れ合い忘れていたものを思い出そう

 

 しかし、自分の周りにはこれと言って自然物が見当たらない、そうお考えになるかもしれません。ご安心ください。あなたの近くに高雄山のような広大な自然がなくても、ビル群に囲まれた小さな公園で自然に触れ合うことが十分できます。その公園に木は植えられているでしょうか。もし木が植えられているなら、あとは簡単に触れ合い、自然の広大さを感じ、心を癒すことができます。その木や、木の枝に触れたりじっくり観察したり、文字通り触れあってください。同じ木でも、隣に植えてある木とは手に伝わる感触が違うでしょう。また、木の模様は一本一本違うことでしょう。こうやって、身近な公園の木々と触れ合うことで、人は自然から生まれてきたもので、その自然に帰ろうとすることが癒されることと分かります。心が疲れてきていると、このような大切なことが抜け落ちていってしまいます。あなたの住んでいるところから公園が近いなら、自然と触れ合い、忘れたことを思い出して、心を癒してください。

人生の本質に逆らって生きていては疲れて力尽きる。そのままの自分で生きるための方法とは。

 

心の疲れを防げない、競争社会の現代

 

 私たちが暮らしている、いまの世の中は競争社会です。これは誰かと力を比べ合い、その結果で優劣が決まって、優れた者たちに優先して財産が分けられていく、そのような社会であるということです。このこと自体は、このブログ内で多く言ってきました。1つのブログで何度も使ってしまうほど、重要な事実なのです。競争社会は、自分たちを偽って生きていかないと、勝ち抜くことができないようになっています。つまり、勝つためには、とても疲れることをする必要があります

競争で疲れた心を分かってもらえない社会

 

 心の疲れは、身体の疲れとは違って目に見えないので、癒すことが難しいと思います。それでも、やはり疲れであることに変わりないから、どこかだるさや不安感、悲しさや虚無感を感じることでしょう。だから、あなたの人生を充実させていくためにも、心の疲れを軽んじてはいけません。しかし、目に見えないからこそ、他の人たち、特に自分の損得にかかわるからと同じ職場の人々などは、甘えるんじゃないと突き放してくると思います。いざ自分たちがこの立場になったら同じような状況に陥るのに、自分以外の人が疲れ切っていることには関心を寄せない。彼らには彼らなりの道理があることでしょうが、その道理から苦しんでいる人に手を差し伸べられないなんて悲しいです。そんな扱いを受け続けたら、どうせこの辛さはわかってもらえないと自己防衛をするようになって、それが行き過ぎると恐ろしいことになりかねません。悲しいかな、いまの日本社会は、そのような悲しいことが罷り通るのです。理不尽な社会だとお考えでしょうか?その通り、いまの世の中は、競争で勝ち抜こうとする世の中は、昔から存在していながら、理不尽なのです。

競争社会は理不尽で、本質とはかけ離れている

 

 こんな理不尽な世の姿は、人が生きる世界の本質ではないだろう。ぼくはそう思います。皆が皆知性がなかった時代は、こんなに苦しんで自殺したでしょうか?そうは思いません。現代に近づくにつれ、我々の環境が変わり、人間がどんどん知性を身に着けていった負の遺産として、苦しみ自ら命を絶つ、というむごい惨劇が起こってきたと、ぼくは思うのです。であれば、その惨劇を止めるためにぼくたちがするべきことは何か。それは、おのおのがそのままの自分の姿を受け入れ、自然な姿で生きていくことであると思います。知性がないと、ぼくたちは自然のように生きていくことでしょう。自分を着飾ったり、ことさらな行いをしたりと、人為的なことはそうしないはずです。その着飾らず、自然に即して生きていく、ということこそ、人生の本質であるとぼくは考えています。しかし、その人生の本質に逆らってもなお、人は理不尽な世の中に身を投じ、傷つくことを止めようとしません。それは、周りの人間に見限られる恐怖からくるものかもしれません。また、人の脳は嫌なことでも、自分の身に沁みついたことを簡単にやめないという、便利ながらも厄介な性質を持ちます。それのせいとも思えます。だからといって、このまま本質の波に逆らっていては、あなたの心身が持ちません。一念発起して、いままでしてこなかったであろう人生の清算をするときです。

そのままの自分を探すために、恥や年甲斐は捨て去ろう

 

 あなたは、このまま疲れた心を引きずって生きていきたいですか?もっと充実した人生を歩む気持ちはおありですか?それならば、あなたの人生を振り返ってみてください。自分の歩んだ道、歩む道が正しいと思うなら、ぜひ突き進んでください。しかし、間違ってると思うなら、軌道修正をする必要があるでしょう。肝心なことは、あなたの心に無理をさせないことです。心が元気でいられる道を選べば、おのずと幸せへの道が見えてくるでしょう。その道の選びなおしの際に、”自分はもう年を取ったから遅い”と諦める人もいます。でも、諦めて辛い道を選び続けていたら、本当に死んでしまうまでそのままです。だめで元々、年甲斐もないと言われて上等、あなたはもうとても頑張ったので、自分に正直に生きていいのです。なんなら、しばらくの間何もしなくてもいい。ダラダラして、心の休息を図っても問題ないのです。つらいままで、それを受け入れて生きるのは、楽しく生きることを諦めないで生きていくことよりも虚しいものです。

これからは自分らしく選択していこう

 

 人は自然の物であり、それに即して生きていくことで充分な満足感を得られます。しかし、いまの社会は自然の流れに逆らうかのように、そしてあなたの充実した人生を妨げるかのように、あれこれ強制してきます。しかし、そんな中でも自然のありがたさを忘れずにスローライフを謳歌する人もいます。そんな人と忙しいあなたには、選び抜いたかどうか以外の相違点はありません。そして、その相違点は今からでも埋め合わせが間に合います。そのままの自分で生きるために、まず自分の選択権を守ることから、初めていきましょう。

たまにはボーッとしてみよう。何かを「感じとって」みよう。

 

昔に比べて早くなった世の中

 

 近年の生活様式は、昔のものに比べると、流れが早くなったようです。例えば、自動車や飛行機が生み出されて、人やものの移動が早くなりました。また、パソコンやネットワーク環境が整備され、情報やインターネット上でのお金の移動は、人やもの以上に早く動き、世界中とのやり取りを可能にしました。それに伴って、仕事の成果を早く求められたり、早く行動できない人々は置いてけぼりとなったり、生活が少し窮屈になった気もします。便利になっていくと、何かが欠けていくといった、閉塞感も感じていくものです。近年の社会で生きる人々は、閉塞感を感じながらも、置いてけぼりになるのが嫌だと、自分自身の体に鞭を打って強引に仕事や行動を早くしようとします。それではその人の心は疲れていくでしょう

時間を取ってボーっとすることのススメ

 

 周囲の時の流れに疲れてきたときは、周りに合わせることをやめてでも、その流れに抗わず、なにも考えずにボーッとしてみましょう。便利になり、それに伴ってあなたに求められるものが多くなったとしても、あなたの時間はあなたのものです。無理をしてまでも、何者になる必要なんてないのです。ボーッとしている時は、何かを考えてはいけません。考え事をしていると、心に“隙”が生まれます。ここから、いろいろな妄想が生まれてきます。この妄想とは、こころを満足させる想像だけではありません。例えば、明日の仕事は上手くいくか、失敗したらどうしようなど、こころを揺るがす不安もまた、妄想の一種なのです妄想が止まらないと、いくらお金を払ってリゾート地に行こうと、温泉に浸かろうと、こころの疲れを解消することはできません。だから、何もせずボーっとして休息することで、いましている行為に心を動かしにくくなるので、心に妄想が湧きにくくなります。妄想が湧かない時間を少しでも作ることで、疲れた心を癒すことができるのです。

何かを感じ取り感謝しよう

 

 ボーっとして、妄想しないようにと平穏を保っていると、何かを感じ取ることがあります。それは、往々にして良い感情かと思います。心が疲れていないときは、誰かや自然のことを、思いやることができるようになります。この思いやりこそ、幸せを感じて生きていくうえで、重要な要因であると思うのです。誰かと比べ合い、ものを増やしていって、物質的な豊かさを追求していっても、心が満足していなければ、比べて作っていくことは、幸せにおいては虚しいことでしかないのです。しかし、資本主義の精神に支配された、いまの先進国諸国に住む人々はこの虚しさと幸せについて見て見ぬふりをします。自分の幸せが精神的な豊かさにあるのに、なぜ物欲を満たすことを重んじてしまうのでしょうか?それはいろいろな理由が上がりますが、それは古い時代の妄想にすぎないと思うのです。昔は、ものが少なく、技術も未熟でした。このようなものが足りない世の中では、生きるためには貯えがあった方が有利、という考えが罷り通るのもうなずけます。しかし、いまの世の中はむしろ、ものがあふれるほど多いのです。いろいろなものが、過去と比べて安価になってきています。したがって、殺気を出すほど努力をしてお金を稼ぐことが、安全かつ幸せという考えで、自分自身に鞭打って働いても、それは過剰であるといえるのです。痛みをこらえて生きていては、周りにも感謝できずに、幸せがわからないほど心が澱むことも、必然として起こるでしょう。この安定指向な思想が、古い時代の妄想であると把握するだけでも、この記事を読んでいただき把握できているあなたは、妄想から離れていく足がかりができていると言えます。

続けていくことで疲れにくい心にもなる

 

 妄想から離れる第一歩は、それが悪い考えの妄想であると、把握することです。また、ボーっとしていることを意識していても妄想は湧きやすくなってしまいます。木を見ず森を見るように大きな流れに乗るかのように心を休めることで妄想は湧きにくくなります。誰かへの思いやりも、自然に包まれていくような感覚も、最初は感じることが難しいと思います。最初はこの記事に書いてあることを意識しても、わからないことが多いために難しいとおもいます。それでもあきらめないで続けることが肝心です。でも無理をしては元も子もありません。とにかくボーっとしてみる、そのための時間を作ることが、大切なのです。大丈夫、あなたは時間を持っています。ボーっとして心を落ち着かせれば、心を癒すこともできます。あなたは幸せになるべき人間です。自信をお持ちください。

「満足することを知る」ことが、楽に生きるための第一歩

 

老子が唱えた「知足」の教え

 

 あなたは今の生活に満足していますか?古代中国が誇る賢者たち諸子百家の中でも、ぼくが特に尊敬している老子という人物がいます。この老子の教えの一つに、「知足」というものがあり、教えの基礎として重要視されています。この「知足」とは、いったいどのような教えでしょうか?

現在も古代も競争社会

 

 この教えは、”足るを知る”とも読むことができ、「満足することを知ることで、穏やかな心で生きていける」という意味があります。老子が生きていた戦乱の世の中では、我先にと物の豊かさを奪うために、多くの国々が他の国に対して戦争を仕掛けていました。これは今の世の中にも通じている点がいくつかありますよね。例えば、プロジェクトで結果を残し、上司や重役に認められて他の同僚よりも出世しようと争う職場。はたまた、受験で好成績を出し、良い大学に進学して、安定した収入を見込める職業に就くために争う高校生活などが通じています。この通じる点があることから、いまの日本社会もまた、物の豊かさを奪うためにほかの人々と争う競争社会となっている。そのように言うことができます。このような奪い合いの時代に対して、老子は「たとえ競争に打ち勝ち、誰かからものを奪って豊かになろうと、この世の無常の掟に逆らうことはできない。」と考えました。

全ては変わり移ろう無常の下にある

 

 無常とは誰もが死ぬさだめであり、変わり移ろうさだであって、人生ははかないものである、といった意味の言葉です。どれだけ身を削って働き、なにかを得たとしても、その栄光は悲しいかな永遠に残るものではありません形あるもの、生き物もただの物もすべて、崩れ壊れていくものだからです。そんな虚しいこの世なのに、人はどうして奪い合って手元の財産を増やすことばかり考えるのでしょうか。それよりも今あるものに感謝して、満足することを知ることができるよう努力するべきなのです。いくら稼いでも、好きなものをたんまり買っても、その人が死んでしまうさだめである以上、物欲を満たすことだけに満足感を感じてはなりません。ものを得て喜ぼうとも、ものを得られず喜ぼうとも喜んだことに変わりありません。むしろ何かを得て喜ぶために、多くの犠牲を自他ともに払ったのなら、ものを得ないが犠牲も出さないで喜ぶ時よりも、損をしているとさえ思えます。得たものは壊れる上、犠牲も多く出してしまうのですから。

自分の人生を自分で決めることが主人公特権

 

 努力を重ねて得た成果は、結局のところ成果事態に意味はなかった。成果によって動かされた、その人の心に意味があるのです。得られる成果に満足しないようならずっとつらい努力を重ねなくてはなりません。そうでなくては、自分のために働いているとは言えない。自分主体でないなら、仕事をするために生きていると気味悪がられても文句が言えないのです。あなたの人生で主人公はあなたです。でも主人公である、とは無理をして大業をなすことではありませんあなたはどう生きるか選択できる、という意味での主人公なのです。無理に何かを得たとしても、それは壊れるし、無理したところで満足しないでしょう。あなたが行こうとしている道は、本当にあなたを満足させてくれるのでしょうか?成功のための道は虚しさを生みます。こう言われて立ち止まるようなら、無理せず後戻りしましょう。そして今あるもので満足することを知りましょう

物はたんまりある。あとは満足を知るだけ

 

 あなたの周りには案外ものがあふれています。そんな贅沢な環境に身を置きながら、もっと欲しいと勘違いして、本当は自分の心にすでにある満足感を無視していては、科学的な根拠はなかろうと、因果応報と言われるように不幸なことが起こるでしょうあなたは幸せになるべき人間ですそしてあなたは、これ以上無理してまでがんばらなくても、満足感を知り味わっていいのですいま、ここから幸せで満足していくことに、誰かから許可をもらう必要なんてありません。あなたは、自分のことを自分で決めていい「主人公」であり、一人前の人間です。悩みを抱えながらも、この記事を読んでくださった方は、もう「悩む」という大人への通過儀礼を、立派に果たしたのですから。満足することを知ること。意識しすぎると窮屈になってしまいますが、少しずつ、無理をなさらないように、この考え方を身に着けていってください。

貪欲な心では格差の渦に飲み込まれる。欲を少なくして楽に生きていいんだよ。

 

この世にはびこる”格差”

 

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 この世の中には、生まれたときに決まる格差というものがあります。格差とは、生まれた時に患う身体的要因や生まれた家庭での経済環境的要因により、社会階級(以下ヒエラルキーとします。)下の地位から上の地位に格上げすることが困難となっている状況を示します。このブログ内において、日本人は世界的に見てこのヒエラルキーにおいて上位である、と言ってきました。しかしながら、日本国内を見ると日本人の中でもこの格差は発生しています。働いても収入が足りず自分の子どもたちをいい学校に行かせることができない。その子どもたちも、さらには両親もまた”高い学費を賄えなければ勉強をすることがままならない”という社会の潮流に飲み込まれている。そのような、いうなれば理不尽な社会となっているのです。

”格差”は奪い合うもととなる

 

 なぜこんな理不尽な格差社会になったのでしょうか。それはヒエラルキー中流、上流に位置する人々が自分のためにもっとお金を使うべきだと幸せの意味をはき違え、社会を操作しているからに他なりません。彼らは自分たちの生活がこれ以上によくなるものと錯覚し、「まだ足りない、もっと欲しいものややりたいことがある」と貪欲な心を持っています。それは人間の生存本能のいき過ぎからくるものかもしれません。はたまた、ものを買ったりいい体験を買ったりして強引に自分の心の穴を補完することで幸せになれる、と自分以上のヒエラルキーに操られているからかもしれません。いずれにせよその間違いは他人にさえ影響を及ぼしかねない悪質なものです。この悪質な間違いゆえに獣の世界のみならず人間社会もまた弱い者たちが身を冒され強い者たちが蹂躙し続ける弱肉強食の世界となっているのです。ぼくは人の本質は協力することだと思っています。このような弱肉強食の獣社会同然な人の共同体しかないのなら、獣たちより身体にディスアドバンテージを背負っているからこそ、それ以外を成長させるべきであるぼくたちの脳はここまで成長する必要がなかったからです。よっていまの協力がないに等しい人の社会は何も考えない動物の社会と変わりないといえます。

自分が貪欲になっても人生はよくならない

 

 そのような社会でパワーゲームをして生きている人たちは往々にして貪欲な心を持っています。貪欲さを持つことが強食側に属する必要条件であり、これがないと野心的に強くなっていけないためパワーゲームに参加できません。しかしながら、この貪欲さはこれまた往々にして人を苦しめるものなのです。なぜなら、貪欲ゆえに自分の立場の向上以外には目を向けることができず、自分以上の強者に進行形で食い物にされていることや、他の人を蹴落として悪業を背負い続けていることに気が付かなくなるからです。前者のデメリットはわかりやすいものです。後者のデメリットは、アンパンマンばいきんまん然り、またUndertaleのGenocideルートヒューマン然り、悪業は往々にして”裁きを受け、その裁きがどのようなものであったにせよ残るものは虚しさだけである”というやはり幸せな人生とは程遠くなるのです。したがって貪欲さを糧にしてこの社会に挑んでいったとしても、自分の充実した人生という観点からしてみればそれはむしろデメリットにまみれているのです。

強い者が勝ち続け、それ以外が負け続ける。戦う意味はないのでは?

 

 そもそも、この社会の経済行為のほとんどは、先駆者や富豪などもともとヒエラルキーの上位に属する人々に有利なものが多く、新規で参入する人たちを拒否するだけで自分の立場が盤石になります。そのようなそもそも強者が有利な社会では少し考えるともう勝負する気概が起きないものです。勝てないゲームはよくクソゲー呼ばわりされますが、そのようなつまらないルールでゲームを続けたいようなプレイヤーはそういません。同じようにどうやってものし上がる確率が低いこの社会で競争をすることは自らの幸せを否定することに他ならないのです。このように貪欲さを持っていては格差を生み出し、また生み出された格差に飲まれていくのみです。

これ以上ものはいらない。楽に生きていいんだよ。

 

 それならば、競争社会で強食側につくことを諦め、貪欲な心を手放して、競争から下りてみてはいかがでしょうか?これならば上記で述べた不幸の連鎖に飲み込まれることがありません。これらは貪欲な心ありきで起こるものだけだからです。不幸が起きなくとも考えようによっては今の時点で持っているもので幸せになることは充分にできるのです。なぜなら、あなたにとって必要なものをもうあなたは持っているのですから。食べ物も、おしゃれな洋服も、雨漏りせず安全な住居もあなたは持っています。現代日本にはそれ以上のものも多く、あなたはその恩恵を受けています。これ以上のものを求めるのならあなたの中の貪欲な心が暴走することでしょう。これ以上にものがいりません。だから欲しがる必要もなく、欲を少なくすべきなのです。

あなたの人生にも影響を及ぼす「慣性の法則」について

 

 

慣性の法則、ご存知でしょうか?

 

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 あなたは「慣性の法則」という物理学の基礎的な法則をご存知でしょうか?この法則は中学校や高校の授業の中で説明されている、このブログ内でも触れられている(下記の記事を参考にしてください。)など、よくよく考えると耳にすることが多い、それほどまでに一般的な法則です。実を言うと、この法則は過去の記事でも少しだけ触れたとおり、ただの物理的法則の枠組みを超えて様々なことを深く知るうえで役に立つことがあるのです。それは一体どういうことなのかを、この法則を知らなかった方に法則自体の解説をしたうえでお話していきたいと思います。

慣性の法則」自体の説明 

 

 そもそも慣性の法則を知らない方もいらっしゃるかと思います。そのような方々へ、この場で簡潔ながら説明させていただきます。

慣性の法則

 止まっている物体に、力を加えなければ、そのまま止まり続けます。動き続けている物体に、力を加えなければ、そのまま動き続けます。これを慣性の法則といいます。

慣性の法則 ■わかりやすい高校物理の部屋■より) 

つまり、その場にとどまり続けようとする力の移り変わりについての性質となります。

ぼくが見つけた慣性の法則の本質

 

 では、なぜその慣性の法則が様々なことを深く知るうえで重要なのでしょうか?それはあらゆる物質はそのまま止まり続けると説明にあるように、様々な抵抗力を受けてとどまっているということを法則に内包しているからです。この抵抗を受けてその場にとどまっているとは、つまり僕たちがこの場にとどまっている瞬間、とどまる位置を完全に固定できているのは、抵抗力という力が加わっていたからです。仮にとどまろうと動くことをやめたときに抵抗力が加わらなかったら、その時は歩いていなくとも進み続けて車や壁にぶつかるなど危険な状況に陥っていたことでしょう。この抵抗力がない状態でこれらにぶつかっていたら、動き続けた影響で体が加速しているため高速でぶつかり甚大な負荷が体を襲うことでしょう。とどまっていることは力を受けていることと同じ。このことを法則の中に含んでいるのです。

抵抗力は人の営みにもある

 

 この抵抗力を受けるということが、物事を深く知る際に重要となってきます。なぜなら、ありとあらゆるものを動かす際には、この抵抗力に逆らったうえでそれ以上の力を動かそうとしているものに掛けなければならないことに説明がつくからです。これは人の心や行動にさえ同じことが言えることこそ、様々なことを深く知ることができ、あなたの人生にも影響を及ぼしかねない所以なのです。あなたは値打ちの高いものを買いたいとお思いでしょうか。また、異性にちやほやされたいとお思いでしょうか。これら人間の欲望を満たすためには行動を起こす、つまり動いて別の何かに働きかけなくてはなりません。その際に必ず必要となること、ものがあります。それは自分と別の何かを動かすこと、そのために掛ける力です。この時点で力を二つ用意しなければ始まりません。さらに、抵抗力に逆らわなければ、とどめている力を超える大きさの力でなければ用意することが無駄になってしまいます。その力とは財力であったり、魅力であったり・・・。このようにありとあらゆるものを動かすには力を用意しなければならないのです。

欲望のために力を用意するループ

 

 自分の欲望を満たすために力を用意する。これは当たり前のように思えて、本当は心も体も疲れ切る大変なことです。たとえば、財力を得るため、つまりお金を稼ぐために辛い仕事をこなす。これは心も体も疲れる典型的な行動です。自分が辛いと思っていることを余分にやらなければならないとは、とても疲れないでできたものはありません。しかし、欲望を満たすためにはそんな仕事をやり続けなければならない。そうやって得た欲しいものは心の疲れ具合により往々にして自分を満足させるに至らず、別なものがあるだろうとまた辛い仕事をする・・・。この生き方で心の底から自分が幸せといえるなら例外と言えます。しかし、そうではないのなら、はっきりいってそれは目の前に餌を吊るされていてそれに向かって走っている畜生と変わりありません。餌がファッションや異性になり、走ることが辛い仕事に変わっただけのことです。一説によると現代の日本社会における会社員の労働環境は、古代ローマの奴隷よりも待遇が悪いとのことです。それなら逃げればいいですが、欲望に囚われている限りそれはできそうにありません。ならば、いっそのこと欲望を切り捨ててしまえばいいのではないでしょうか?

欲を減らして抵抗力に逆らわないようにしよう

 

 もっとものが欲しいとか、もっと楽になりたいといったものを欲望を切り捨ててしまえば、餌を追う必要が無くなります。なぜなら、その餌は余分でありいらないものでしかなく、興味がないからです。確かに、生きるために必要なことはしなければなりません。しかしそれ以上の欲望は満たさなくても生死にはかかわりません。生きるだけなら奴隷よりもはるかにいい環境なのです。現状で満足しようとしない欲望故に苦しくなるのです。現状に満足して欲望を満たそうとせず、自然がもたらしている抵抗力に逆らわなければ、きっと楽に生きていけることでしょう。