人生に疲れた心を癒す、かびそうまのアローマブログ

ぼくでも、人生に疲れた人を少しだけでも支えられたらいいと思って書いていきます...。

人生の本質に逆らって生きていては疲れて力尽きる。そのままの自分で生きるための方法とは。

 

心の疲れを防げない、競争社会の現代

 

 私たちが暮らしている、いまの世の中は競争社会です。これは誰かと力を比べ合い、その結果で優劣が決まって、優れた者たちに優先して財産が分けられていく、そのような社会であるということです。このこと自体は、このブログ内で多く言ってきました。1つのブログで何度も使ってしまうほど、重要な事実なのです。競争社会は、自分たちを偽って生きていかないと、勝ち抜くことができないようになっています。つまり、勝つためには、とても疲れることをする必要があります

競争で疲れた心を分かってもらえない社会

 

 心の疲れは、身体の疲れとは違って目に見えないので、癒すことが難しいと思います。それでも、やはり疲れであることに変わりないから、どこかだるさや不安感、悲しさや虚無感を感じることでしょう。だから、あなたの人生を充実させていくためにも、心の疲れを軽んじてはいけません。しかし、目に見えないからこそ、他の人たち、特に自分の損得にかかわるからと同じ職場の人々などは、甘えるんじゃないと突き放してくると思います。いざ自分たちがこの立場になったら同じような状況に陥るのに、自分以外の人が疲れ切っていることには関心を寄せない。彼らには彼らなりの道理があることでしょうが、その道理から苦しんでいる人に手を差し伸べられないなんて悲しいです。そんな扱いを受け続けたら、どうせこの辛さはわかってもらえないと自己防衛をするようになって、それが行き過ぎると恐ろしいことになりかねません。悲しいかな、いまの日本社会は、そのような悲しいことが罷り通るのです。理不尽な社会だとお考えでしょうか?その通り、いまの世の中は、競争で勝ち抜こうとする世の中は、昔から存在していながら、理不尽なのです。

競争社会は理不尽で、本質とはかけ離れている

 

 こんな理不尽な世の姿は、人が生きる世界の本質ではないだろう。ぼくはそう思います。皆が皆知性がなかった時代は、こんなに苦しんで自殺したでしょうか?そうは思いません。現代に近づくにつれ、我々の環境が変わり、人間がどんどん知性を身に着けていった負の遺産として、苦しみ自ら命を絶つ、というむごい惨劇が起こってきたと、ぼくは思うのです。であれば、その惨劇を止めるためにぼくたちがするべきことは何か。それは、おのおのがそのままの自分の姿を受け入れ、自然な姿で生きていくことであると思います。知性がないと、ぼくたちは自然のように生きていくことでしょう。自分を着飾ったり、ことさらな行いをしたりと、人為的なことはそうしないはずです。その着飾らず、自然に即して生きていく、ということこそ、人生の本質であるとぼくは考えています。しかし、その人生の本質に逆らってもなお、人は理不尽な世の中に身を投じ、傷つくことを止めようとしません。それは、周りの人間に見限られる恐怖からくるものかもしれません。また、人の脳は嫌なことでも、自分の身に沁みついたことを簡単にやめないという、便利ながらも厄介な性質を持ちます。それのせいとも思えます。だからといって、このまま本質の波に逆らっていては、あなたの心身が持ちません。一念発起して、いままでしてこなかったであろう人生の清算をするときです。

そのままの自分を探すために、恥や年甲斐は捨て去ろう

 

 あなたは、このまま疲れた心を引きずって生きていきたいですか?もっと充実した人生を歩む気持ちはおありですか?それならば、あなたの人生を振り返ってみてください。自分の歩んだ道、歩む道が正しいと思うなら、ぜひ突き進んでください。しかし、間違ってると思うなら、軌道修正をする必要があるでしょう。肝心なことは、あなたの心に無理をさせないことです。心が元気でいられる道を選べば、おのずと幸せへの道が見えてくるでしょう。その道の選びなおしの際に、”自分はもう年を取ったから遅い”と諦める人もいます。でも、諦めて辛い道を選び続けていたら、本当に死んでしまうまでそのままです。だめで元々、年甲斐もないと言われて上等、あなたはもうとても頑張ったので、自分に正直に生きていいのです。なんなら、しばらくの間何もしなくてもいい。ダラダラして、心の休息を図っても問題ないのです。つらいままで、それを受け入れて生きるのは、楽しく生きることを諦めないで生きていくことよりも虚しいものです。

これからは自分らしく選択していこう

 

 人は自然の物であり、それに即して生きていくことで充分な満足感を得られます。しかし、いまの社会は自然の流れに逆らうかのように、そしてあなたの充実した人生を妨げるかのように、あれこれ強制してきます。しかし、そんな中でも自然のありがたさを忘れずにスローライフを謳歌する人もいます。そんな人と忙しいあなたには、選び抜いたかどうか以外の相違点はありません。そして、その相違点は今からでも埋め合わせが間に合います。そのままの自分で生きるために、まず自分の選択権を守ることから、初めていきましょう。

たまにはボーッとしてみよう。何かを「感じとって」みよう。

 

昔に比べて早くなった世の中

 

 近年の生活様式は、昔のものに比べると、流れが早くなったようです。例えば、自動車や飛行機が生み出されて、人やものの移動が早くなりました。また、パソコンやネットワーク環境が整備され、情報やインターネット上でのお金の移動は、人やもの以上に早く動き、世界中とのやり取りを可能にしました。それに伴って、仕事の成果を早く求められたり、早く行動できない人々は置いてけぼりとなったり、生活が少し窮屈になった気もします。便利になっていくと、何かが欠けていくといった、閉塞感も感じていくものです。近年の社会で生きる人々は、閉塞感を感じながらも、置いてけぼりになるのが嫌だと、自分自身の体に鞭を打って強引に仕事や行動を早くしようとします。それではその人の心は疲れていくでしょう

時間を取ってボーっとすることのススメ

 

 周囲の時の流れに疲れてきたときは、周りに合わせることをやめてでも、その流れに抗わず、なにも考えずにボーッとしてみましょう。便利になり、それに伴ってあなたに求められるものが多くなったとしても、あなたの時間はあなたのものです。無理をしてまでも、何者になる必要なんてないのです。ボーッとしている時は、何かを考えてはいけません。考え事をしていると、心に“隙”が生まれます。ここから、いろいろな妄想が生まれてきます。この妄想とは、こころを満足させる想像だけではありません。例えば、明日の仕事は上手くいくか、失敗したらどうしようなど、こころを揺るがす不安もまた、妄想の一種なのです妄想が止まらないと、いくらお金を払ってリゾート地に行こうと、温泉に浸かろうと、こころの疲れを解消することはできません。だから、何もせずボーっとして休息することで、いましている行為に心を動かしにくくなるので、心に妄想が湧きにくくなります。妄想が湧かない時間を少しでも作ることで、疲れた心を癒すことができるのです。

何かを感じ取り感謝しよう

 

 ボーっとして、妄想しないようにと平穏を保っていると、何かを感じ取ることがあります。それは、往々にして良い感情かと思います。心が疲れていないときは、誰かや自然のことを、思いやることができるようになります。この思いやりこそ、幸せを感じて生きていくうえで、重要な要因であると思うのです。誰かと比べ合い、ものを増やしていって、物質的な豊かさを追求していっても、心が満足していなければ、比べて作っていくことは、幸せにおいては虚しいことでしかないのです。しかし、資本主義の精神に支配された、いまの先進国諸国に住む人々はこの虚しさと幸せについて見て見ぬふりをします。自分の幸せが精神的な豊かさにあるのに、なぜ物欲を満たすことを重んじてしまうのでしょうか?それはいろいろな理由が上がりますが、それは古い時代の妄想にすぎないと思うのです。昔は、ものが少なく、技術も未熟でした。このようなものが足りない世の中では、生きるためには貯えがあった方が有利、という考えが罷り通るのもうなずけます。しかし、いまの世の中はむしろ、ものがあふれるほど多いのです。いろいろなものが、過去と比べて安価になってきています。したがって、殺気を出すほど努力をしてお金を稼ぐことが、安全かつ幸せという考えで、自分自身に鞭打って働いても、それは過剰であるといえるのです。痛みをこらえて生きていては、周りにも感謝できずに、幸せがわからないほど心が澱むことも、必然として起こるでしょう。この安定指向な思想が、古い時代の妄想であると把握するだけでも、この記事を読んでいただき把握できているあなたは、妄想から離れていく足がかりができていると言えます。

続けていくことで疲れにくい心にもなる

 

 妄想から離れる第一歩は、それが悪い考えの妄想であると、把握することです。また、ボーっとしていることを意識していても妄想は湧きやすくなってしまいます。木を見ず森を見るように大きな流れに乗るかのように心を休めることで妄想は湧きにくくなります。誰かへの思いやりも、自然に包まれていくような感覚も、最初は感じることが難しいと思います。最初はこの記事に書いてあることを意識しても、わからないことが多いために難しいとおもいます。それでもあきらめないで続けることが肝心です。でも無理をしては元も子もありません。とにかくボーっとしてみる、そのための時間を作ることが、大切なのです。大丈夫、あなたは時間を持っています。ボーっとして心を落ち着かせれば、心を癒すこともできます。あなたは幸せになるべき人間です。自信をお持ちください。

「満足することを知る」ことが、楽に生きるための第一歩

 

老子が唱えた「知足」の教え

 

 あなたは今の生活に満足していますか?古代中国が誇る賢者たち諸子百家の中でも、ぼくが特に尊敬している老子という人物がいます。この老子の教えの一つに、「知足」というものがあり、教えの基礎として重要視されています。この「知足」とは、いったいどのような教えでしょうか?

現在も古代も競争社会

 

 この教えは、”足るを知る”とも読むことができ、「満足することを知ることで、穏やかな心で生きていける」という意味があります。老子が生きていた戦乱の世の中では、我先にと物の豊かさを奪うために、多くの国々が他の国に対して戦争を仕掛けていました。これは今の世の中にも通じている点がいくつかありますよね。例えば、プロジェクトで結果を残し、上司や重役に認められて他の同僚よりも出世しようと争う職場。はたまた、受験で好成績を出し、良い大学に進学して、安定した収入を見込める職業に就くために争う高校生活などが通じています。この通じる点があることから、いまの日本社会もまた、物の豊かさを奪うためにほかの人々と争う競争社会となっている。そのように言うことができます。このような奪い合いの時代に対して、老子は「たとえ競争に打ち勝ち、誰かからものを奪って豊かになろうと、この世の無常の掟に逆らうことはできない。」と考えました。

全ては変わり移ろう無常の下にある

 

 無常とは誰もが死ぬさだめであり、変わり移ろうさだであって、人生ははかないものである、といった意味の言葉です。どれだけ身を削って働き、なにかを得たとしても、その栄光は悲しいかな永遠に残るものではありません形あるもの、生き物もただの物もすべて、崩れ壊れていくものだからです。そんな虚しいこの世なのに、人はどうして奪い合って手元の財産を増やすことばかり考えるのでしょうか。それよりも今あるものに感謝して、満足することを知ることができるよう努力するべきなのです。いくら稼いでも、好きなものをたんまり買っても、その人が死んでしまうさだめである以上、物欲を満たすことだけに満足感を感じてはなりません。ものを得て喜ぼうとも、ものを得られず喜ぼうとも喜んだことに変わりありません。むしろ何かを得て喜ぶために、多くの犠牲を自他ともに払ったのなら、ものを得ないが犠牲も出さないで喜ぶ時よりも、損をしているとさえ思えます。得たものは壊れる上、犠牲も多く出してしまうのですから。

自分の人生を自分で決めることが主人公特権

 

 努力を重ねて得た成果は、結局のところ成果事態に意味はなかった。成果によって動かされた、その人の心に意味があるのです。得られる成果に満足しないようならずっとつらい努力を重ねなくてはなりません。そうでなくては、自分のために働いているとは言えない。自分主体でないなら、仕事をするために生きていると気味悪がられても文句が言えないのです。あなたの人生で主人公はあなたです。でも主人公である、とは無理をして大業をなすことではありませんあなたはどう生きるか選択できる、という意味での主人公なのです。無理に何かを得たとしても、それは壊れるし、無理したところで満足しないでしょう。あなたが行こうとしている道は、本当にあなたを満足させてくれるのでしょうか?成功のための道は虚しさを生みます。こう言われて立ち止まるようなら、無理せず後戻りしましょう。そして今あるもので満足することを知りましょう

物はたんまりある。あとは満足を知るだけ

 

 あなたの周りには案外ものがあふれています。そんな贅沢な環境に身を置きながら、もっと欲しいと勘違いして、本当は自分の心にすでにある満足感を無視していては、科学的な根拠はなかろうと、因果応報と言われるように不幸なことが起こるでしょうあなたは幸せになるべき人間ですそしてあなたは、これ以上無理してまでがんばらなくても、満足感を知り味わっていいのですいま、ここから幸せで満足していくことに、誰かから許可をもらう必要なんてありません。あなたは、自分のことを自分で決めていい「主人公」であり、一人前の人間です。悩みを抱えながらも、この記事を読んでくださった方は、もう「悩む」という大人への通過儀礼を、立派に果たしたのですから。満足することを知ること。意識しすぎると窮屈になってしまいますが、少しずつ、無理をなさらないように、この考え方を身に着けていってください。

貪欲な心では格差の渦に飲み込まれる。欲を少なくして楽に生きていいんだよ。

 

この世にはびこる”格差”

 

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 この世の中には、生まれたときに決まる格差というものがあります。格差とは、生まれた時に患う身体的要因や生まれた家庭での経済環境的要因により、社会階級(以下ヒエラルキーとします。)下の地位から上の地位に格上げすることが困難となっている状況を示します。このブログ内において、日本人は世界的に見てこのヒエラルキーにおいて上位である、と言ってきました。しかしながら、日本国内を見ると日本人の中でもこの格差は発生しています。働いても収入が足りず自分の子どもたちをいい学校に行かせることができない。その子どもたちも、さらには両親もまた”高い学費を賄えなければ勉強をすることがままならない”という社会の潮流に飲み込まれている。そのような、いうなれば理不尽な社会となっているのです。

”格差”は奪い合うもととなる

 

 なぜこんな理不尽な格差社会になったのでしょうか。それはヒエラルキー中流、上流に位置する人々が自分のためにもっとお金を使うべきだと幸せの意味をはき違え、社会を操作しているからに他なりません。彼らは自分たちの生活がこれ以上によくなるものと錯覚し、「まだ足りない、もっと欲しいものややりたいことがある」と貪欲な心を持っています。それは人間の生存本能のいき過ぎからくるものかもしれません。はたまた、ものを買ったりいい体験を買ったりして強引に自分の心の穴を補完することで幸せになれる、と自分以上のヒエラルキーに操られているからかもしれません。いずれにせよその間違いは他人にさえ影響を及ぼしかねない悪質なものです。この悪質な間違いゆえに獣の世界のみならず人間社会もまた弱い者たちが身を冒され強い者たちが蹂躙し続ける弱肉強食の世界となっているのです。ぼくは人の本質は協力することだと思っています。このような弱肉強食の獣社会同然な人の共同体しかないのなら、獣たちより身体にディスアドバンテージを背負っているからこそ、それ以外を成長させるべきであるぼくたちの脳はここまで成長する必要がなかったからです。よっていまの協力がないに等しい人の社会は何も考えない動物の社会と変わりないといえます。

自分が貪欲になっても人生はよくならない

 

 そのような社会でパワーゲームをして生きている人たちは往々にして貪欲な心を持っています。貪欲さを持つことが強食側に属する必要条件であり、これがないと野心的に強くなっていけないためパワーゲームに参加できません。しかしながら、この貪欲さはこれまた往々にして人を苦しめるものなのです。なぜなら、貪欲ゆえに自分の立場の向上以外には目を向けることができず、自分以上の強者に進行形で食い物にされていることや、他の人を蹴落として悪業を背負い続けていることに気が付かなくなるからです。前者のデメリットはわかりやすいものです。後者のデメリットは、アンパンマンばいきんまん然り、またUndertaleのGenocideルートヒューマン然り、悪業は往々にして”裁きを受け、その裁きがどのようなものであったにせよ残るものは虚しさだけである”というやはり幸せな人生とは程遠くなるのです。したがって貪欲さを糧にしてこの社会に挑んでいったとしても、自分の充実した人生という観点からしてみればそれはむしろデメリットにまみれているのです。

強い者が勝ち続け、それ以外が負け続ける。戦う意味はないのでは?

 

 そもそも、この社会の経済行為のほとんどは、先駆者や富豪などもともとヒエラルキーの上位に属する人々に有利なものが多く、新規で参入する人たちを拒否するだけで自分の立場が盤石になります。そのようなそもそも強者が有利な社会では少し考えるともう勝負する気概が起きないものです。勝てないゲームはよくクソゲー呼ばわりされますが、そのようなつまらないルールでゲームを続けたいようなプレイヤーはそういません。同じようにどうやってものし上がる確率が低いこの社会で競争をすることは自らの幸せを否定することに他ならないのです。このように貪欲さを持っていては格差を生み出し、また生み出された格差に飲まれていくのみです。

これ以上ものはいらない。楽に生きていいんだよ。

 

 それならば、競争社会で強食側につくことを諦め、貪欲な心を手放して、競争から下りてみてはいかがでしょうか?これならば上記で述べた不幸の連鎖に飲み込まれることがありません。これらは貪欲な心ありきで起こるものだけだからです。不幸が起きなくとも考えようによっては今の時点で持っているもので幸せになることは充分にできるのです。なぜなら、あなたにとって必要なものをもうあなたは持っているのですから。食べ物も、おしゃれな洋服も、雨漏りせず安全な住居もあなたは持っています。現代日本にはそれ以上のものも多く、あなたはその恩恵を受けています。これ以上のものを求めるのならあなたの中の貪欲な心が暴走することでしょう。これ以上にものがいりません。だから欲しがる必要もなく、欲を少なくすべきなのです。

あなたの人生にも影響を及ぼす「慣性の法則」について

 

 

慣性の法則、ご存知でしょうか?

 

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 あなたは「慣性の法則」という物理学の基礎的な法則をご存知でしょうか?この法則は中学校や高校の授業の中で説明されている、このブログ内でも触れられている(下記の記事を参考にしてください。)など、よくよく考えると耳にすることが多い、それほどまでに一般的な法則です。実を言うと、この法則は過去の記事でも少しだけ触れたとおり、ただの物理的法則の枠組みを超えて様々なことを深く知るうえで役に立つことがあるのです。それは一体どういうことなのかを、この法則を知らなかった方に法則自体の解説をしたうえでお話していきたいと思います。

慣性の法則」自体の説明 

 

 そもそも慣性の法則を知らない方もいらっしゃるかと思います。そのような方々へ、この場で簡潔ながら説明させていただきます。

慣性の法則

 止まっている物体に、力を加えなければ、そのまま止まり続けます。動き続けている物体に、力を加えなければ、そのまま動き続けます。これを慣性の法則といいます。

慣性の法則 ■わかりやすい高校物理の部屋■より) 

つまり、その場にとどまり続けようとする力の移り変わりについての性質となります。

ぼくが見つけた慣性の法則の本質

 

 では、なぜその慣性の法則が様々なことを深く知るうえで重要なのでしょうか?それはあらゆる物質はそのまま止まり続けると説明にあるように、様々な抵抗力を受けてとどまっているということを法則に内包しているからです。この抵抗を受けてその場にとどまっているとは、つまり僕たちがこの場にとどまっている瞬間、とどまる位置を完全に固定できているのは、抵抗力という力が加わっていたからです。仮にとどまろうと動くことをやめたときに抵抗力が加わらなかったら、その時は歩いていなくとも進み続けて車や壁にぶつかるなど危険な状況に陥っていたことでしょう。この抵抗力がない状態でこれらにぶつかっていたら、動き続けた影響で体が加速しているため高速でぶつかり甚大な負荷が体を襲うことでしょう。とどまっていることは力を受けていることと同じ。このことを法則の中に含んでいるのです。

抵抗力は人の営みにもある

 

 この抵抗力を受けるということが、物事を深く知る際に重要となってきます。なぜなら、ありとあらゆるものを動かす際には、この抵抗力に逆らったうえでそれ以上の力を動かそうとしているものに掛けなければならないことに説明がつくからです。これは人の心や行動にさえ同じことが言えることこそ、様々なことを深く知ることができ、あなたの人生にも影響を及ぼしかねない所以なのです。あなたは値打ちの高いものを買いたいとお思いでしょうか。また、異性にちやほやされたいとお思いでしょうか。これら人間の欲望を満たすためには行動を起こす、つまり動いて別の何かに働きかけなくてはなりません。その際に必ず必要となること、ものがあります。それは自分と別の何かを動かすこと、そのために掛ける力です。この時点で力を二つ用意しなければ始まりません。さらに、抵抗力に逆らわなければ、とどめている力を超える大きさの力でなければ用意することが無駄になってしまいます。その力とは財力であったり、魅力であったり・・・。このようにありとあらゆるものを動かすには力を用意しなければならないのです。

欲望のために力を用意するループ

 

 自分の欲望を満たすために力を用意する。これは当たり前のように思えて、本当は心も体も疲れ切る大変なことです。たとえば、財力を得るため、つまりお金を稼ぐために辛い仕事をこなす。これは心も体も疲れる典型的な行動です。自分が辛いと思っていることを余分にやらなければならないとは、とても疲れないでできたものはありません。しかし、欲望を満たすためにはそんな仕事をやり続けなければならない。そうやって得た欲しいものは心の疲れ具合により往々にして自分を満足させるに至らず、別なものがあるだろうとまた辛い仕事をする・・・。この生き方で心の底から自分が幸せといえるなら例外と言えます。しかし、そうではないのなら、はっきりいってそれは目の前に餌を吊るされていてそれに向かって走っている畜生と変わりありません。餌がファッションや異性になり、走ることが辛い仕事に変わっただけのことです。一説によると現代の日本社会における会社員の労働環境は、古代ローマの奴隷よりも待遇が悪いとのことです。それなら逃げればいいですが、欲望に囚われている限りそれはできそうにありません。ならば、いっそのこと欲望を切り捨ててしまえばいいのではないでしょうか?

欲を減らして抵抗力に逆らわないようにしよう

 

 もっとものが欲しいとか、もっと楽になりたいといったものを欲望を切り捨ててしまえば、餌を追う必要が無くなります。なぜなら、その餌は余分でありいらないものでしかなく、興味がないからです。確かに、生きるために必要なことはしなければなりません。しかしそれ以上の欲望は満たさなくても生死にはかかわりません。生きるだけなら奴隷よりもはるかにいい環境なのです。現状で満足しようとしない欲望故に苦しくなるのです。現状に満足して欲望を満たそうとせず、自然がもたらしている抵抗力に逆らわなければ、きっと楽に生きていけることでしょう。

リラックスして生きるには、何も考えないようにすればいい。

 

ボーっとすること、ありますか?

 

 あなたは何も考えずにボーっとすることがある方でしょうか。そのボーっとしている時には、全くと言えるほど頭を空っぽにできていますでしょうか。人は顕在意識が気を逸らした隙を見逃さず、あっという間に雑念や煩悩に囚われ苦しんでしまうものです。その雑念・煩悩というのは「明日の会社の上司へのプレゼンテーションは成功するだろうか。失敗したら自分はどうなってしまうのだろうか。」という身の危険からくる恐怖から生まれ出たものかもしれません。また「あの服はかわいいからほしい。でもあのバックもかわいいからほしい。」という世間に操作されて刷り込まれた物欲から生まれ出たものかもしれません。いずれにしても、それらはあなたの心を疲れさせます。厄介なことに心の疲れは新たな雑念や煩悩を生み出します。それによってあなたの心は負のスパイラルに陥り、限界点を超えてしまうと恐ろしい事態になってしまうのです

真面目な方々ほど嵌る、こころの負のスパイラル

 

 しかし現代の競争社会に身を置いていては、そんな負のスパイラルに容易に嵌り抜け出せなくなるでしょう。競争は虚しいものであり、誰かと比べて勝った時にだけ幸せが生まれる状態は万人が幸福になることができない「過去の社会と変わらない」社会でしかないのです。そんな社会ははっきりいって間違っています。もしあなたが努力をしているにも拘らずこの社会で辛い思いをなさっていたとしたら、それはあなたのせいではない。ぼくはそう断言します。この社会はまじめな性格をして優しい心を持つ人格者には生きづらいように設計されているからです

真面目な奴ほど馬鹿を見る理由

 

 真面目でやさしい方々は往々にして感受性の強い賢さがあります。しかし、感受性が強いがゆえにこの社会は腐っていると感じてしまうのです。実際問題、富裕層は幸せの意味をはきちがえている者が多数を占めるために、自分より力を持たない者のなけなしの財産を吸い取ってかりそめの幸せに浸ろうとしています。ですので弱い者いじめが常識的にまかり通っている社会に希望を感じることができないがゆえに、真面目な方々は努力も本来の力も発揮することができないのです。

辛い人生、あなたが選びましたか?

 

 しかし、ここでまじめでやさしい方々にお聞きしたいことがあります。なぜそのような苦しみながら生きる生き方をしているのでしょうか?それが性分であり身に沁みついて取れなくなって仕方がないから、とお答えする方もいると思いますが、それではもう一つお聞きします。その自分の性分に束縛されて辛い人生を、まるで暗闇の荒野をずっとまっすぐ歩き続けるかのような、永遠にさえ感じる苦痛を忍びながら生きていかなければならないとお思いですが、あなたは辛い人生のために生まれてきたのですか?並々ならぬ強みをもつ人なら、辛い人生の中でも生きがいに満ちていると思いその荒野をひた歩くこともできる人もいます。しかし、それは飽くまで”並々ならぬ”強みを持つ人であり、それこそアントレプレナー以上に一握りの天賦の強さを持っていなければ成り立ちません。

責任感に駆られる必要はない

 

 皆が皆強くあることはできないし、体を壊すほどの無理をしてまで強くあろうとする必要はないのです。真面目な方は、人生の中で責任感を重視しがちです。しかしながら、悲しいことに人間の中にはその方々の善意に何の感謝もせず、最悪の場合には善意を叩いて踏みにじる輩だっているのです。そんな中で”世のため人のため”生きることは幸せにつながると思えません。ならば自分のしてきたことに意味はないのか。そう言ってショックを受け塞ぎ込む...。

無は心を癒す力も、人生を好転させる力も生み出す可能性を持つ

 

 このように優れた感受性を活かして考え事をした結果苦しくなる一方なら、いっそのこと普段はしなくとも、少し強引にでも、ボーっとして頭を空にすることが大切なのです。禅の世界では「無は何でもないが故に何にでもなれる」というように無のすごみを説いています。今の世の中は何かにならなければならないと鞭を打たれてきました。そんな世の中に大勢の心が疲れています。辛い生活を大勢にさせるような社会は欠陥していると思います。そんな社会の言うことなど聞く道理はありません。疲れているとか、無意味だと思ったなら競争から下りるべきなのです。

肝心なのは自分を捨てないこと

 

 今の時代はものがありすぎる故にありとあらゆるところに人を惑わせるものがあります。自分は土地や使命に縛られている、といった考えは論語的な考え方です。論語は人為的操作によって世を動かそうとしますが、そのようなことはできません。力を持って仁を生み出し礼に沿ったことをなす。そのようにしていては自然にすら干渉することでしょう。人はどうしようとも自然の一部でしかなく、それ以上になることはできません。そもそも、前近代的思想の基礎になっている科学は自然法則を応用したに過ぎず、結局のところ人は自然の力には勝てずじまいなのです。そんな中で責任を感じて自分に鞭打つことが本来の自分でないなら、それをやめるに越したことはありません。本来の自分であり続ける、そのことは諦めてはならないのです。

ずっと満たされたままでいることはできないから、こころを静かにして生きよう

 

今日いいことがあっても...

 

 あなたは今日いいことはありましたか?いいことがあったなら、非常に喜ばしいことです。おめでとうございます!しかし、勝って兜の緒を締めよ、といったことわざがあるようにその喜ばしい状態をずっと維持していくのは、残念なことにできません。人はずっと満たされていたいというのに、ぼくはその理想的な状態に対して不可能だという。これは一体なぜなのでしょうか?

喜び続けることができない理由とは

 

 それは、喜ばしい状態がエネルギーに満ち満ちた状態だとすると、エネルギーが満ちている状態は一種の緊張状態なので、たとえ喜ばしい緊張状態だとしても緊張が続くと人は壊れてしまうからです。緊張していることというのは、ギターなどの楽器の弦を強い力で両方に引いている状態ととても似ています。ギターを演奏している方ならご存知かと思いますが、弦をあまりに引き絞りすぎると、両方からかかる強い負荷に堪えることができず、鉄線だろうがぷつんと切れてしまいます。よって過剰な快楽の追求はむしろ負荷となり得るのです。せっかくいいことがあっても、そのいいことのために心を大きく乱されてはいけません。緊張にとらわれて心が疲れてしまいます。

コップから飲み物がこぼれるように、喜びも維持できない

 

 その上、幸せが満たされたにも拘わらず、それでもなお足りなさから喜びを追うものなら、器に注がれた水がこぼれていくようにせっかくできた喜ばしい時も崩れおちてしまいます。あなたが好きな飲み物をコップに注いでいるときにたくさん飲みたいがあまり注ぎすぎてこぼれてしまったら、もったいないと損をした気分になってしまいますよね?人の心のエネルギーもまた、あふれてこぼれることで損をしてしまいます。特に大きい損が「喜びの瞬間をずっと続けたいからと維持する」ことで心に幸せどころか負担をかけてしまうことですこの世に存在する万物はずっと動いています。水は高いことから低い所へと動く習性を持っていますね。人は動かないと死んでしまいます。一見静止しているものですら、内部で原子が帳尻を合わせるために動いているからこそ粒を集めて目に見えるような形で存在できているし、空間にはたくさんの原子が飛び交っていて、その一部を呼吸して吸収する。このように動かないものなどそうないのです。そんな中で動きを止めようとするなら様々な抵抗を受けながら踏みとどまらなければならない。だからこそ、何もしないことはつらいのです。これは心の動きを止める際にも同様のことが言えます。幸せを保ち続けるならエネルギーを消費します。心の元気やエネルギーが減っていったら体と同じように疲れてしまうのですそれでも表面上では喜んでいるから、こころが疲れてきていることに気付かない。これでは、快楽への追求心が壊れてしまい延々と快楽を追って周りが見えなくなりかねません。周りを傷つけ過ぎた挙句人が離れていってはせっかくの喜ばしい出来事も独り善がりで喜びが無くなってしまいそうですよね。このように、喜ばしい状態を維持しようとすると災難が二つも起こってしまいます。だから、喜びを維持することはできないし、それでもしようものなら不幸が訪れるのです。

”ずっと”喜びを追うべきではないが一時は喜んでいい

 

 ならば、”生きる希望や起こった幸運なんて結局のところ価値がないじゃないか”というのはちょっと待ってください。起こった幸運にはその場その場でなら羽目を外してまで喜んでいいのです。生きる希望にまい進することは立派な生き方であり、希望によって得られたものも喜んでいいのです。しかし、”ずっと”喜ぶことはできない。自然のルールに基づいて、喜ばしい過去は静かに忘れていくべきなのです。心を静かに戻すことができれば、喜びなどの感情の起伏に振り回されることが無くなり疲れることなく穏やかに生きることもかなうでしょう。

物理学の「慣性の法則」は人の心身にもある

 

 物理学にもある慣性の法則は、不思議なことに人の体や心にも備わっています慣性の法則とは、平たく言うなれば強い負荷をかけてでもその場に戻ろう、留まろうとする法則のことを指します。これが人に備わっているとはつまり、人も過去に大きな成功や挫折があった場合、周りの人たちや自分の心身に強い負荷をかけてまでその過去に囚われる、という法則があることを意味します。この留まる力によって心は疲れていくのですが、幸いにも人の慣性の法則は自然のそれとは違って”囚われていてはいけない”と意識を持ってさえいれば回避することができます。過去の栄華に囚われたくなる気持ちは法則的にも、ぼく個人としてもわかります。でも、それを手放すことで心についた重りを外すことができるのです。そうすることで人生が自由なものへと変わっていきます。

動かないならプラスにもマイナスにもならない。変わっていこう。

 

 変わることはその自然法則から外れるためのエネルギーを消費することでありとても労力のいることです。ただ、一度動き出せばどんどん物事が加速度的に動いていきます。だからこそ自分を変えるには理屈を並べるより動くべきです。今回では、静かに生きるために自分を切り替えていく。これは特に練習もないことです。すぐにでも取り組めます。動かなかったらプラスにもマイナスにもならないです。思い切った行動の中にも癒しはあるのです。