人生に疲れた心を癒す、かびそうまのアローマブログ

ぼくでも、人生に疲れた人を少しだけでも支えられたらいいと思って書いていきます...。

競争社会から下りて幸せに生きるための「無為自然」の教え

 

ぼくたちが生きる現代社会の姿

 ぼくたちがいま生きている社会は、一般的に競争社会だとされていますよね。ほしいものがあれば、それを買うためにお金をもらう必要があるから、お金の見返りに多くの人々と競争して誰よりも成功を評価されなければならない。だから現代を生きる人々は勉強後のテストや仕事で作り上げた成果で評価をされて、それを他の誰かと比べ合うことで自分と他の人々との優劣を元にした境界線を引き、評価の優劣のヒエラルキー(評価の高い人を頂点に、評価順に下に並べていったもの)のうち、自分はどこに配置されているのか考えるのです。多くの人から賞賛を受け、お金も名声も持ち合わせる人を目指して誰かと比べ合い戦っていく。そんな社会だといえます。しかし、ぼくはそれが人の幸せのための社会だとどうも思うことができません

比べ合い、勝ち抜くということ

 あなたは比べ合いの中で誰かに負けてしまったり、どれだけ勝ち続けて豊かになろうとしても人生のうちに逆立ちしても勝つことができないと思われる人がいたらどう感じますか?ぼくならば悔しく、悲しい気持ちを感じます。このままだと負けたことでその人よりお金も評価ももらえず、誰かに負けた負け犬というレッテルを自分で自分に貼り付け、もう自分を含めた誰からも評価されることがなくなってしまう、そのようなマイナス思考にとらわれるからです。この地球上には70億人の人間がいるとされています。人気がある仕事で比べ合いをするなら、例え日本一に輝いてもそれより規模の大きい世界一がいることと思います。上には上がいるのです。その中でさえさらに上を目指すものなら必要になってくるものがあります。努力と才能です。そのうちどちらかが足りないともう上に向かうことができず、そもそもどちらかを持っていないのなら小規模な日本の経済上ですら中堅以下のヒエラルキーに甘んじてしまいます。

生まれたときに決まる「格差」

 そもそも競争社会の中では裕福な家庭で生まれたなど、生まれた時の事情で格差が決まるものです。このように、競争社会は搾取するものと搾取されるものではっきりと分かれていた大昔の奴隷制のように、負けた人々のフォローが利かず勝つものがどんどん勝っていくという社会なのです。それゆえにもしあなたの幸せがまた物欲などほかの何かに依存する欲求を満たすことでしか感じられないものであるなら、今の社会体制は居心地が悪い場所以外の何物でもないです。ではどうすればそのような競争社会で幸せに生きていくことができるのでしょうか?それは老荘思想の大家老子が考えた無為自然」の教えを守り、競争から下りたつもりになり穏やかに生きていけばいいのです。

無為自然」の大家”老子

 老子は一般的に紀元前中国の春秋戦国時代を生きたとされています。治安や内政を顧みずほかの国と軍事力を競い豊かさを求め、打ち負かした相手を搾取することに躊躇いがないといった社会で、武力は使わないけれどやっていることが今と変わらない競争社会がこの紀元前にもうすでにあったことには驚きを隠せません。そんな今よりひどい争いの時代に、老子は紀元前の人でありながら奪い合いをすることの虚しさをわかっていました。だからこそ、「無為自然」という教えを考え付いたのです。この「無為自然」とは”物事にことさら干渉せず、わざとらしいふるまいをしないで、自然に帰ったかのようにありのままの自分で生きる”という意味があります。このような生き方をすることで、”満足することを知り、心の豊かさを取り戻すことができる”ようになります。物を買い豊かさを得る行為は心の豊かさを得るために行っています。この教えを守れば本当に必要なもの以外買う意味がなくなる。つまり競争社会から下りることができるのです。

流れるように楽に生きるべし

 現代に生きる人たちは自分の境遇や運命に抗おうと人生の流れに必死に逆流していきます。しかし彼らは知りません。そこまで自分たちは悪い境遇ではなく、むしろ世界的に恵まれた境遇に生まれた人たちであること。それ以上を求めるものなら二兎追う者は一兎を得ないように罰が当たること。それならば自分の今のあふれるほど物が豊かな日本の生活環境に感謝して人生の流れに流されるように生きれば楽に生きることができ、多くの悩みから解放されることを。さあ、浮き輪にでも乗ったかのようにたまには流されるように自然に等身大に過ごしてみましょう。

人生をより面白くするには、問うことこそ大事

 

好奇心を持つと

 あなたは強い好奇心をお持ちですか?好奇心は面白く魅力的な世界を見るためには必要不可欠なものです。なぜなら、好奇心を発揮することによって、新しく出会ったものを深く追及したり、その結果として心に深い感動を与えたりとその輝きがよりありがたいものとなるからです。また、何気ない日常でさえも、好奇心を発揮すれば何かしらの新しい発見ができる起点となり得ます。このように、新たな世界へと足を踏み入れるためには、好奇心が求められるのです。

好奇心を持つためには、疑問に思うべし

 ではどのようにしたら一人ひとりが持つ好奇心を強くすることができるのでしょうか?その方法はいたって単純です。疑問に思う。たったこれだけです。英語の疑問文で用いられる単語を使うと、5W1Hとなります。What(何が),Who(誰が),When(いつ),Where(どこで),Why(なぜ),How(どのように、もしくはどんな方法で)です。これをもとに、あらゆることへの問いをつくって、それに対して自分へ答えを与えてあげるために動く。こうすることであなたの中に眠っている好奇心は呼び起こされ、新たな世界へと導いてくれることでしょう。例として、ぼくはチョコレートの歴史を知りません。それはいったいどのようなものなのか。この前は疑問を持ちました。ここで注意するべき点は、どんな疑問でも無下にしてはいけない、という点です。

無駄なものや知識は無駄なままなのか

 チョコレートの歴史を知ることで人生にどんな影響が出るのかわかりません。しかし、どうして知りたいと思うことと人生に実用的な情報を一致させなくてはならないのでしょうか?古代中国のことばで「無用の用」といったことばがあります。自分に必要なものだけを集めようとして、そのためにいらないと感じたものを切り捨てていくと、知らないうちに自分の進むべき道や進みたい道すら切っていてなくなってしまう、という意味の効率主義に待ったをかけるようなことばです。近頃は無駄と思われた学問はおろそかにされてしまう悲しい事態が起こっています。しかし、人類が積み上げてきた学問に、無駄なものなどそうあったものではないのです。本当にいらないのならそもそも学問として取り上げられることはありません。それを無駄だとか、くだらなく感じるといった理由で拒否して教養の幅を狭める事はもったいないです。かのスティーブ・ジョブズは「点と点がつながる」と言って過去にリード大学にて気まぐれで学んだカリグラフィ(西洋書道)をマッキントッシュの書体に活かすというアイディアを思いつきました。マックのパソコンは一見人生においてあまり役に立ちそうにないカリグラフィがその一部となっているのです。人生何が役に立つかなど先見の明がどんぴしゃりと当たることはそうないと思います。だからこそ、自分の好きなことを学んでもいいのです。それは役に立たないかもしれませんが、役に立つときもあるのです。それは誰にもわかりません。

 

 問いを作ることは慣れるまでは意識的に行う必要がありますが、慣れてしまえば楽しくなること請け合いです。焦ることなく、毎日続けましょう。

あなたが自分に強制するべきことなど、ひとつもない。

 

この間のニュースにて

 この間ぼくは、仕事に対して”苦しい”という言葉では収まり切れないほど疲れ切ったあげく、臨界点を超えて命さえも落としてしまう方がいることをニュースで知りました。辛いことがない人生はありませんが、辛いことしかない人生には生きていく希望がありません。自殺を選んでしまった、あるいは選んでしまいそうな人たちはおそらくこの辛いことしかない人生になってしまったのでしょう。なぜ、彼らはそれほどまでに人生に疲れてしまったのでしょうか?

人生に疲れる理由とは

 人生に疲れた理由の一つに、自分自身が自分に何か嫌なことを強制している」といった理由が上がります。例えば、職業において重要なポストを任されたとき、「この仕事は私が完遂する”べき”なのだ」といったように、~するべきや~しなければならないと思い込むことで自分の思考に強制をして、無理やり行動と思考を一致させようとする試みが、嫌なことの強制に、つまり人生に疲れ切る原因になり得るのです。ぼくは、なぜ死ぬまで嫌なことを自分の体や頭に強制するのかがわかります。

ぼく自身の過去と強制することとの関係

 実をいうと、ぼくは中学一年生のころにいじめをうけ、こころがぐちゃぐちゃに歪んでしまって薬に頼らなければならない状況に陥った時がありました。そのころから、頭ではわかっていながら、周りの人たちから与えられた”不安”が事あるごとにぼくをむしばみ、その不安から自分の行動や言動に強制をかけることが多々あります。不安がぼくを支配するので、その不安から逃れるために、周りの人たちからの抑圧を躱すために自分に強制をかけてしまい、ぼくの本来の姿や思考がわからなくなり、強制されていることすらわからなくなり、よその世界には希望や知らない楽しみなどいくらでもあることを忘れてしまうのです。~するべき、~しなければならないといった考え方は自分主体の自由な人生において害悪でしかありません。しかし、ぼくはそういった考え方をする人たちはその考え方をしたくてしているわけでは、毛頭ないこともまた知っています。彼らには面子があり、矜持があり、富や名声があって、そしてそれらを失いたくないという恐怖があります。彼らにとって積み上げてきたものを彼ら自身の手によって破壊することは、どれほど苦痛であることかは想像に堪えません。

生きるための「破壊的イノベーション

 しかし、ぼくは彼らがいまは生きて生を楽しみ、死ぬべくして死ぬ時まで笑った時の総数を増やすためには心を鬼にしてこう伝えたく思います。「辛いことは重々承知していますが、生きるために勇気を振り絞って、自分が作った自分への強制に立ち向かいましょう。そのために、積み上げてきたものを壊すことを厭ってはいけません。生きてこそのあなたの人生なのですから。」”「超」東大脳”(著者 茂木健一郎)のあるページには破壊的イノベーション、といった言葉が書かれています。この言葉は積み上げてきたものを否定して破壊してこそ、行き詰った道に変革をもたらす、という意味を持っています。スティーブ・ジョブズやジョブ・ベゾス(Amazonの創業者)といった実業家たちが使った手法であり、言わずもがな彼らはそれでぼくたちの生活を豊かにしてくれました。彼らのように積み上げてきた価値観を壊すことはとても難しいことです。しかし、このことから逃げてしまっては残された道は死しかありません。とても厳しいことなのですが、死んでしまってこそ積み上げてきたものが一つももれなく役に立つことはないでしょう。生きてさえいれば辛いことに立ち向かった経験をほかの人のために役に立たせることもかないます。ぼくは簡単なことでほんの短い時間で絶望に打ちのめされることも今でもありますが、そういったときはとにかく無理をしてでも、とても強引だったとしても休みを取ります。他人あってこその富や名声ではありますが、それ以上に自分あってこその人生です

この世界は広い、だから希望を持って

 生が否定されてはいけないといった自己中心思考の意見は好きではありませんが、世界には日本のおよそ70倍もの人々がいます。それほどの物語や世界があるのです。日本にはそれの1%より多いくらいの世界しか広がっていないのに、それだけで全てをつまらないと否定して人生に幕を引くなんてもったいないと思うのです。かならず、よその世界には希望があります。でなければ先進国の自殺率が日本と同等レベルまで上がっていなければつじつまが合いません。だから、大丈夫、なのです。死ぬくらいなら、どうせ死んでしまうのなら一日くらいすっぽかす勢いで休みを取っても問題はありません。あなたが過労が原因で亡くなってしまったら、企業は従業者を殺したと体勢がとても悪くなるのでよほど経営能力に欠けていない限りあなたを休ませざるを得ないのです。だから、大丈夫、です。休む決心が、自分の人生をつかみに行く決心がついたなら、ぼくはこう伝えたく思います。「いってらっしゃい、良い旅路を!」(嫌なことの強制については、違う話題をもとにぼくの別の記事でも触れています)

 

kabisouma.hatenablog.jp

 

無為自然の極意、ありのままで、感じるがままで

 

古代中国思想家の大家、老子

 あなたは老子、という古代中国の思想家をご存知でしょうか?彼は現代の日本でも受け入れられている思想家、孔子儒学的な考えを否定して、むしろ逆の考え方を打ち立てました。ぼくはこの老子道教的な思想こそが、現代の荒波にもまれて生きる人々を救い、人生に疲れた心を癒してくれる考え方である、と考えています。 一体老子が考えた理想的な生き方とはどのようなものだったのでしょうか?

老子の思想と孔子の思想

 一度対極にある思想家の孔子の考え方を整理してみましょう。彼は人の中には必ず善の心が宿っている、それに基づいて仁義を、つまり正しいことをなそうとすることが人の正しい在り方であり、それを多くの人々が行うことができたなら、世の中は安泰へと向かっていくであろう。これが孔子が考えた世の中のあるべき姿です。これに対して老子は、「そもそも仁義や慈愛が必要とされる世の中なら、それは人の生き方がおかしくなっている世の中だ。」と対抗して、おぼろ気でありよくは理解できない存在であるけれども、偉大なる(タオとも読む)に従って、ありのままの自分で流れる水のように生きることが人の正しい生き方であり、それによっておのずと平和になっていく世の中こそ、人が真に追求すべき真理で治まっている世の中である。という思想を考えました。

なぜぼくが老子の思想を推奨するか

 ぼくがこの老子の思想が疲れた人々の癒しになると考えるのには、現代における行き過ぎた向上志向や欲望の過剰捻出が恐ろしいものであるという理由があります。今の世の中は目まぐるしく発展していっています。これは人間の欲望が底なしでありこのままだと満たされることが二度とないことを示しているかのようです。人はどんな環境であれ死に直面するほどの恐怖が続かない限り、やり方ひとつで自分の置かれている生活環境に満足をすることができます感謝の心を忘れず、満足して生きていこうと決意を抱けば、それだけで無意味とも思える生存競争のパワーゲームから抜け出すことができるのです。どれだけあなたが苦しい思いをして莫大な富を得ようと、夢などやりたいことにそぐわない、また富を得ても心に穴が開いているかのように満たされないのでは、苦しい思いをしただけ損になってしまいます。実際にぼくは年収が800万円を超えた時点でそれ以上年収が増えたとしてもその人の幸福度にプラスに作用することはないといったデータを本で読んだことがあります。競争に打ち勝ち大きな富を持ったとしてもその状況が真に満足ができるものでない限りは持つ意味がないのです。逆に言えばどれだけ生活が苦しくても、笑いがあり満たされているような生活は、その裕福な生活を凌駕する幸せがあることでしょう。

道に従い競争をしないことこそ癒しの第一歩

 あなたはもうほかの人と争う必要なんてないのです。自分が満足できるように毎日を生きていけば競争なぞしなくとも満足のいく生活ができます。そして疲れた人生の癒しの第一歩は、その競争社会から精神的にでも降りて、道に従いありのままで特に難しいことを考えることなく毎日を過ごす、こういったことから始まります。

もしあなたの寿命が残り3年しかないなら、と考えることで自分の人生で忘れていたことを思い出せる

 

本当に夢は持っていないのか?

 昨日の記事ではあなたは夢を自分で決めてもいい、なぜならあなたの人生なのだから、といった趣旨で書きました。

 

kabisouma.hatenablog.jp

 

しかし、夢を忘れた方や、そもそも持っていないという方はどうすれば夢を描いて追うことができるのでしょうか?しかし、ぼくはそもそも夢を描くとか、作り直すといった表現はおかしいものであると思います。なぜなら、大人になった人たちは、子供の時にすでに夢を描いていたからです。それを忘れているだけなので今の時点で夢を描くのはナンセンスであると思います。忘れていたのならじっくりと時間をかけてでも思い出せばいいのですから

あなたは残り3年しか生きられないなら何をしたい?

 しかし、思い出すのにもどうすればいいのかわからない、そういった方もいるかと思います。ならばどうすればいいか。ぼくは”20代で始める大好きなことの見つけ方”(著者 本田健という本に書いてあった「自分の寿命が残り3年しかなかった時のことを想像する」という考え方を推奨します。あなたは人生の有限性について考えたことはあるでしょうか?ありとあらゆるものはいつか死んでしまったり、壊れてしまったりする。これは世の中の常だと思います。だからこそ人は惰性に流されることなくいつも楽しく、有意義に生きるべきであるとぼくは思います。有意義に生きるためには、自分に合った生き方を考える必要があります。夢を追いかけることが自分に合った生き方だと思うのなら躊躇する必要はないのです。その自分に合った生き方を見つけるためには、一度自分の命の有限性を思い出すことをお勧めします

墓場まで持っていけるもの

 悲しいかな、ぼくもあなたもやがて死んでしまいます。ぼくは、死んで墓場まで持っていけるものはないわけではない、と思います。一人ひとりの心ならば、死ぬ前には、ひょっとすると死んだ後にも持っていけるものだと思います。あなたは残り3年しか生きられないと仮定します。3年後にあなたの心は後悔することなく持っていけるもの、でしょうか?はっきりと「はい」と肯定できる人ならばその人の人生はとても幸せなものかと思います。たとえつらいことも多かろうと、です。しかしながら、はっきりと肯定ができない人は、自分の人生について考える余地があるかと思います。3年という時は短いように思えて、案外多くのことを行うことができます。研究をするために大学に入学することだって、留学をすることだってできると思います。料理や工業技術、伝統芸能を極めていくことだってできると思います。人はあきらめない限り、何にだってなれるのです。ぼくはあきらめるという行為は人生でやってはいけないことの一つであると考えます。 

人生、何事もあきらめてはいけない

 ”がんでもなぜか長生きする人の「心」の共通点”(著者 保坂隆)という本にて、がんになったことでこの先の命をあきらめ捨て気味に生きているがん治療患者は、あきらめずに立ち向かったり、粛々とでも治療を受けたり、あるいはがんであることを忘れようとしたがん治療患者より早く亡くなったという研究データも残されているそうです。あきらめない限りは人生はよりよくなることを科学的に示した画期的なデータだと思います。あなたもあきらめずに自分のやり方で人生と向き合い、ここではのこり3年の寿命という状況と向き合えば、自分の”本”本心にきつく蓋をしめた夢を開けることができるでしょう。あきらめてはいけません。あきらめなければきっとあなたの人生は好転してゆくのです。

自分の人生なら、夢も自分で決めていい

 

 あなたは夢を持っていますか?

 あなたは自分の行きたい場所ややりたいことなど、死ぬまでに叶えたい夢は持っていますか?夢を持っていると人生を生きていくことに張りが出ていいですよね。しかし、その夢は時として誰かに不正に操作された可能性があるのです。

不正に操作された夢

 例えば、公務員になる、と誰かが志した、としましょう。それ自身は前の記事

 

kabisouma.hatenablog.jp

 

にも書いたとおりに良くも悪くもなく、批判もぐうの音も出ません。そして、その夢の理由は何ですかと問われたとき、安定した生活を送るためや、人の役に立ちたいため、といった理由が浮かびます。それも批判もぐうの音も出ません。しかし、例外として、許すまじ夢や目的があります。

許すまじ例外とは

 その例外とは、「自分の心の奥底で響く声、”本”本心に基づいていない夢や目的」というものです。あなたの夢は誰かに依存していませんでしょうか?誰かありきの夢になってはいませんでしょうか?公務員になりたい理由が安定した生活のためなら、あなたは死んでも危険は冒したくない、リターンよりもリスクを重視して行きたい、という夢があなたの”本”本心ということになります。日々の生活に十分満足をして、感謝を忘れないで生きていく、老荘思想における賢人のような生き方ができるなら、安定に比重を割いた生き方はとても幸せな生き方だと思います。でも、もしなんとなくとか、危険を冒して、それで挫折する中で、それでも別の世界を見つけていく、という生き方を切ることができないのならば、その夢ははっきり言うと夢としてふさわしくないので新たな夢を決めたほうがいいかと思います。ぼくは安定した仕事を批判しているわけではありません。ただ、ぼくは自分のうわべだけの本心の中に隠している、本物の本心、先ほどから言ってきた”本”本心から逃げることはいかがなものかと思います。確かに夢を追うことで周りの人たちに蔑まれることもあるかもしれません。悲しいかな、この世界には大業を応援する人、だけとはいかないものなのです。しかし、周りの人たちからの軽蔑や批判が一体何なのでしょうか?それが実態を持った手となりあなたを鷲掴みにして動けなくする、とでもいうのでしょうか?それは現代の科学においてはあり得ることのない現象なのです。仮にあなたは周りの人たちからの軽蔑や批判で、やはり動けなくなるではないか。今そう思ったとします。しかしそれでも周りの人たちの声は物質的な抑圧にはならないと思います。なぜなら、本当に物質的な抑制をかけているのは紛れもない自分自身なのですから。

自分を縛るのは自分自身

 周りの声に応じて夢を語れば自分と向き合う必要なんてない。あるいは、自分自身がその周りの声に便乗をすれば夢をまっさらにしてボーっと生きていられる。もしくは、そんな人たちに囲まれてついには夢を盗まれてしまったのかもしれません。恐怖も怠惰も原点になり得ますが、いずれにせよ夢にできっこないという蓋をぎゅうぎゅうになるまで押し込み、「やりたいこと、叶えたい本物の夢」を封印するのは自分しかしないのです。それに対してぼくが待ったをかけたいと思っているのには、「その人たちを相手にせず、自由に生きたほうが人生が楽しい」と考えているからです。さっきも言った通り、周りの人たちが物質的な抑圧をあなたの夢にかけることができないのなら、その人たちの精神的な抑圧を受け流し、身を守りながらも自分との対話をして向き合っていくことができる。そしてそのほうが人生が楽しく、また後悔して死にいくこともない、と考えます。自分の”本”本心は自分の本心では考えもつかない幸せへのナビゲートができるからです。もし、その周りの人たちから自分の夢を守っていくと決めたのなら、自分の守り方としては「忘れないようにSNSやブログで少しでいいのでアウトプット(発信)をする」もしくは「周りの人たちのように夢を蔑ろにしない知り合いに向けて夢を語る、相談する」というものがあります。人は一人ではとても夢をかなえることはできません。誰かが協力をしてくれたからこそ、また誰かが自分の基準や価値観をもとに夢やその産物を評価してくれたからこそ、夢はかなうものなのです。どんな優れた人もワンマンで夢を成し遂げることはできませんでしたし、これからもできないと思います。だから助け合いが必要となるのです。どんな出会い方をしてても、この人には打ち明けられる、と思った人にはためらうことなく夢を語るべきです。同様に人の役に立ちたいため、という理由も”本”本心から思うことができなければ、心の澱んだ人間に偽善者扱いされたときに、自分を信じることができず心が折れてしまいます。それに内に秘めている心が引きつっているのに、人のことを考えた仕事ができるのか、と考えると難しい部分も出てきてしまいます。善意は受け取る側と与える側がかみ合っていないのなら押しつけととらえられてしまいます。わからなければ思い切って聞くなどの積極性も発揮することで、あなたの人の役に立ちたいという思いは満たされていくでしょう。

思い出せば夢を叶うもの

 夢はいつかほんとになるーーー。そう歌った歌もあります。しかし、ほんとになるためには本気になる必要が出てきます。自分の人生は自分で決めていい。だから、自分との対話をいとわないことこそ、夢がどこにあったのか、それとどうかかわっていけば自分は幸せとなれるのか、わかるようになるカギとなるかと思います。あなたは何でもできる。あなたは人間であり、偉人もまた人間だからです。あまり紺詰めて夢を追うと疲れてしまいますが、ゆっくりと、あなたの心地の良いペースで追いかけて行ってください。ぼくも、非力ながら応援していますね...。

物事に絶対はない、比べあいをしない限り。 ~初投稿~

 今日、散歩がてら散髪に行くと、ぼくの目の前に白く一面に広がる雲が広がっていました。

 ぼくは雨が降るかな?いやだなぁ・・・と思いました。

 でもぼくが読んだ本には、自分が見て、感じたことだけがすべてではなく、ほかの人やほかの方向から見ればその「見て、感じた」”嫌な”ことはむしろ「見て、感じた」”嬉しい”ことになっている。そう書いていました。

 この雨でダムの干ばつが治って、それによって誰かが助かっていくのならば、雨が降ったら嬉しいことなんだな、そう思い返しました。

 ものの見方に「絶対に!」正しいことはありません。正しいことというのは、間違えたことと比べあうことでようやく生まれるのです。

 だからあなたは楽しく生きていいんですよ?だっていいことも悪いことも比べあわなきゃわかんないから。それは人に迷惑をかけては確かにいけないことだけれども、それは本当にその人に迷惑をかけているのか、傷をつけているのかなんて聞いてみなければ妄想でしかないですよ。物事に絶対はない。だから、卑屈になる必要も見栄っぱりになる理由もないのです。

 物事に絶対はない、比べあいをしない限り。これだけ覚えていってくださいっ!

 ではよい日を~!